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宮台真司×小林武史「世界の手触りを失うな」(1)
対談当日、折しも世間は菅首相の退陣表明と内閣不信任案で騒然としていた日。そんななかお出でいただいた社会学者の宮台真司さんは、のっけから熱く、静かに、語りはじめた。「政局」から「人の尊厳」にまでおよぶテーマの、濃密な2時間半のダイアローグだ。(対談日:2011年6月2日)
updata:2011.07.14
キーワードは「依存」。問題は「自明性への依存」
まずは内閣不信任案の話から
宮台 今朝からtwitter流してたんですよ。もうすぐ不信任案の採決だけど、可決されたら、解散して、郵政選挙ならぬ脱原発選挙をすりゃいいって。人間万事塞翁が馬っていうか。原発をめぐって大きな政党は中が割れてるじゃないですか? 不信任案可決&総選挙はそこを整理するチャンスだったけど、グズグズになっちゃいましたね(笑)。
小林 原発が争点の総選挙になると結局経済のことが絡んでくるから、自民はそこで原発を内包した形で寝技みたいなとこに持ち込むようなことがあったんじゃないかと思うので、そこらへんはちょっとどうなんだろうと......。
宮台 そうですね。経団連など経済界は「お付き合い」の世界で、電事連の意見が前面に出るけど、自動車業界でさえ自然エネルギーに舵を切らないと世界市場で見放されて活路はないと思ってますからね。経団連の中の「お付き合い」からでてくる公式見解と、それとは異なる各企業の本音の、違いが大切です。経済界の本音が暴露されることも、選挙の仕方次第ではありえたと思うんですよね。
小林 実際、パナソニックとかは意思表示をはっきりわかりやすい形でしてますもんね。(※註 パナソニックが三井不動産などと協業でとりくむ藤沢市のスマートシティ構想、等)
宮台 でも「物言えば唇寒し」で、多くの企業がそう思っているのに、経済界主流の議論にはならないんです、どうしても。本当に〈悪い共同体〉の典型です、経団連は。
小林 ここのところ(ソフトバンクの)孫さんともやりとりさせてもらってるんですけど、やはり辛辣におっしゃいますね。
宮台 孫さんは通信事業で同じ「垂直統合」図式で苦しんでおられたからね。国税を費やしたネットワークインフラを独占する企業が、インフラにぶらさがる部門も独占することだけど。
宮台 NTTが他社にインフラを利用させたがらなかったように、東電は新エネにインフラを利用させない。全てが「デカイもの」にぶら下がってしか生きられないクソ図式。NTTも東電も本来は単なるドカンヤで......。
小林 本来なら何の?
宮台 土管屋。NTTの祖先電電公社にせよ電力会社の祖先日本発送電にせよ、税金を使って土管を作ってきた。ならば土管は誰が使ってもいいはず。なのに、土管屋が、土管に流し込む部門も、土管から引き出す部門も、全部にぎる。その上で土管屋にメディアも握られてデマを流される。ソフトバンクの電波が弱い理由は中継基地が少ないからだとかね。本当は800メガヘルツ帯を土管屋の元公社(電電と国際電電)が独占してるからじゃん。
小林 本当はあれも、孫さんが電波の開放のところだけを別会社にしてみんなで使えるようにしたほうが、カスタマーにとっても選べるし、それぞれが競争できて質が上がってくる、とあれだけ主張しても、そんなことやったらNTTの株主が損になるって言い張る。
その居直りって。株主至上資本主義の居直りですもんね。最初、浜岡を止めたときも誰かが言ってました。 中部電力が訴訟を起こすでしょうって。株主の不利益になるからって。
宮台 でもNTTもKDDIも元は私企業じゃなく公社(電電と国際電電)だったし、東電や中電なども元は私企業じゃなく日本発送電っていう国営会社。それを分割民営化しただけだから、彼らが持つ通信インフラや送電インフラは、国民全体にとっての共有財(コモンズ)。株主が出資した資本で作ったわけじゃないから、訴訟なんてどうってことない。やれやれ......。
小林 やれやれですね......。 いま原発がどうしてダメなのかっていうのは、こんな無理な体勢で使っていたのかってことでもあるし、麻薬的な交付金の使い方で、一度免疫があるところには立て続けに作っちゃって、それで54基にもなっちゃってるっていう、まるで悲しいブルースが聞こえてきそうな歴史なんですが(笑)。
日本の原発をとりまく現状
宮台 無限責任の損害賠償を繰り入れないリスク計算に嘘があり、電源三法(交付金によって発電所建設を促進する法律)で注ぎ込まれる税金を繰り入れないコスト計算に嘘があり、ウランの採掘・精製・濃縮・運搬・廃棄物処理の過程で出る炭素を繰り入れない低炭素の標榜に嘘があり、経済的にもリスク的にも永久に回ることのない核燃料サイクル事業で放射線廃棄物を処理するという計画に嘘があり、すべて嘘だらけ。 他方で、資源逼迫と政治情勢ゆえの化石燃料の将来的価格上昇や、住民の安全意識上昇や予想外の老朽化速度ゆえの原発の建設維持費用上昇や、逆に物凄い速度で低下しつつある自然エネルギーの単位あたり費用についての話が、スポンサーシップを利用した情報遮断で、国民が知らされていない。だからチェルノブイリ原発事故以降の20余年で、どれだけ日本がずれてきたのかって、みんなわかってない。 そもそも、原発が止まれば計画停電が起こるのは仕方ないって思う人が大半なんだからね。特定の電力会社からしか電気が買えないなんて先進国の中では日本だけなんだって言うと、学生たちもひっくり返りますからね。
ただ、社会学者として言わせていただくと、脱原発・脱化石・自然エネルギーは、単なる電源種の話じゃなく、「エネルギーの共同体自治」の動きです。それが広がった契機は、1986年のチェルノブイリ原発事故で、〈システム〉への過剰依存の恐怖が主題化されました。それに先だって、ヨーロッパでは、1980年代に入るとスローフードの動きがありました。これもオーガニックやトレイサビリティの話じゃなく、「食の共同体自治」の話でした。それが広がった契機は、福祉国家体制の破綻で、やはり〈システム〉への過剰依存の恐怖が主題化されたわけです。
小林 そうですね。
宮台 日本では原発はまだ「電源種」の話でしかありません。日本では「食の共同体自治」であるスローフードがロハス(オーガニック&トレイサビリティ)になるように、「エネルギーの共同体自治」である自然エネルギーが電源種の話になる。
スローフードについて言えば、オーガニック&トレイサビリティは派生的な帰結で、本質は「顔が見える相手に作って売るから、悪いことをする気になれない」「顔が見える相手から買うから、多少安いからといってスーパーで買う気になれない」。難しくいうと「近接性による動機づけで自立的経済圏を回す」。
小林 そっかそっか。
宮台 「食の共同体自治」も「エネルギーの共同体自治」も日本では別物に変形して、「安全な食べ物」や「安全な電源種」の話になる。「自治と共和」ならざる「統制と依存」の話に縮小してしまうわけ。「安全な食べ物」も「安全な電源種」も「もっとちゃんと統制しろ」という馬鹿話にしかなりません。
小林 僕もap bankの活動のなかで、もっと「食の循環、命の循環」っていうものが見える社会のほうが、生き物として絶対に幸せになれるってことを言ってるんです。
それはエネルギーも同じことで、僕らは当たり前のようにエネルギーをジャブジャブ使っていいってことではない。 善し悪しのまえにそんなことが続くわけもないですよね。どういうことがあってここに(エネルギーが)もたらされているのか、なぜそれを選ぶのかっていう理由を知るということ。 そもそも命をいただいて生きてきただけでもこんなにラッキーなことはなくて、それをちゃんと明確にしていくためには、生きていく、社会を形成していく、その意義とか意味も含めたベーシックなところを大切にしないと、という思いがすごくあったんです。 だからそういう意味では相当「お金」がね......、お金にはいい面もあるんだろうけど、お金というニンジンだけで突っ走ってきてしまった僕らとしては、反対側で諸刃の刃みたいになっちゃってるお金っていうものをちゃんと道具としてそれなりの節度を持った形で使えるようになっていったほうがいいなって僕は思って。そういう気持ちでap bankをやってるところがあるんですけども。
「日常の自明性」を疑わない日本
宮台 ap bankみたいな活動は欧米では普通に理解されますよね。市場を敵にまわすよりも、市場をうまく使いましょうと。フェアトレードの思想とも関係しますよね。日本はフェアトレードの認知率は1割ちょっとですけど、ドイツだと6割以上、イギリスではもう8割くらいが認知していて、日常生活の中で「正しいものにお金を使おう」と考えるのが当たり前です。だけど、僕らはそうじゃないですよね。 キーワードは「依存」です。さっき言った「〈システム〉への依存」。市場への依存や国家への依存を含めた「見通しがたい巨大システムへの依存」です。これは別名「自明性への依存」です。そんなことはあり得ないのに「巨大システムが動いて当たり前」と思い込む。だからこそ、実際に動かなくなると、パニックになってしまうんです。 実を言うと、「原発から自然エネルギーへ」といきなり電源種の話になるのがおかしいと思うんです。そうじゃなく「野放図なエネルギー消費に依存しきった生活を疑え」という話がないとおかしいでしょう。
宮台 十年前には2位だった個人あたりGDPが23位になったと騒がれるけど、それよりも、GDPが2位だった十年前でさえ、幸福度調査が75位よりも上位になったことがないことのほうがよほどスキャンダルでしょう。これが、自明性に依存しない共同体自治であれば、「これだけエネルギー使ってるのに幸せじゃないのはおかしいんじゃないか?」「これだけいいモノを食べてるのに幸せじゃないのはおかしいんじゃないか?」「じゃあどこ間違ってるんだ?」って考えられる。ところが「依存が当たり前」だと、「考えてもいいけど、そっから先どうするんだ?」って話になっちゃうんですよね(笑)。 実際には、〈システム〉依存を完全に断ち切るのは無理です。でも思考停止は断ち切るべきです。何を最終目的として〈システム〉を利用するのかをハッキリさせて、盲目的な依存を緩和しなきゃダメ。
自分たちの生活を自分たちでコントロールできるようにする。そうしないと、どんなにエネルギーやモノを消費できても、僕らの幸福度は上がりません。ギリシア時代から唱導されてきたように、依存ならざる自立の感覚がない限り、人は幸せになれないんです。
小林 宮台さんこないだ参議院の勉強会でお会いしたときにね、依存が何っておっしゃってましたっけ?
宮台 「自明性への依存はやめろ」です。自明性っていうのは、日常の当たり前さです。以前からそうだけど、今回インターネットのコミュニケーションや記者クラブの記者連中のコミュニケーションを見て、「あ、また始まったな」って思う共通性があります。それは、「俺たちの日常にケチつけるのかよ?」ってタイプの激昂なんですよ。
神保哲生氏とやってるインターネット番組で繰り返し「低温殺菌牛乳を飲むべきだ」って発信をしてきました。パスチャライズドっていって60度から65度で30分間ゆるく殺菌した牛乳です。 これがいい理由は、低温殺菌牛乳を作るためには牛舎の衛生管理が大切になり、原乳も地産地消しかあり得なくなるからです。他方、高温殺菌は、相対的に衛生管理の悪い日本中の牛舎からかき集めた原乳を混ぜて殺菌する。要は糞まみれの搾乳(笑)。だから、低温殺菌を取り入れることは、でかいメーカーに依存する体制からの離脱です。近隣の牧場で搾乳した原乳を、地域の乳業屋が低温殺菌牛乳に加工し、地域の流通ルートに乗せる。やっぱり共同体自治につながるわけです。ところがね、低温殺菌の話をすると必ず番組に来るクレームというのが、「俺たちが安心して毎日飲んでる牛乳にケチをつけるのか!」っていう。
小林 はははは(笑)。
宮台 このことで面白いなと思うのは、他の国の人にこのリアクション説明できるのかなってことです。わりと難しいんですよ。僕たちが当たり前に依存しているモノが、問題を抱えることが分かったら、「それは問題だ」と指摘するのは当然だからだよね、どこの国でも。でも、少なからぬ日本人が「ケチつけるのか?」っていうふうに言ってくる。原発の問題もそう。政府や東電が流す「安全デマ」―「事態は収束しつつある」―も、そう言ってほしいと願う「絶対安全教信者」が日本に大勢いるからだよね。絶対安全教信者の特徴は、安全と危険の相対的な連続性を許さないで、「安心できるのか、できないのか」という二項図式で噴き上がること。「政府や東電の言うことを信じたらとんでもないことになる」とtwitterで流したときの反応も同じ。
「デマで不安にさせるのか!」って。
小林 そうですね(笑)。
宮台 「原発は絶対に安全です」という「安全デマ」は過去40年間流され続けてきたけど、これは1974年に成立した電源三法による原発誘致地への交付金漬けのせいで、安全だろうが危険だろうが「背に腹は変えられず」カネのために誘致した人たちが、認知的整合性理論的に、原発立地という「変えられない現実」に引きずられる形で「原発は絶対安全」という方向に認知を歪めることを自ら望んできたからでもあります。こうした「安全デマ」を流してきた電力会社や政府にも問題があるし、安全性についての合理的な議論をスキップするためにカネで釣ってきた自民党政治にも問題があるけれど、それだけじゃない。
目に見えない〈システム〉に依存した「日常の自明性」を疑わず、それについて合理的な疑いを差し挟もうとすると、「俺の日常にケチをつけるのか」と激昂して排斥する(笑)っていう〈悪い心の習慣〉を直さないと、どうにもならない。
小林 「日常の自明性」ってどういうことですか?
宮台 「自明性」は英語では「セルフエビデンス」じゃなく「ファミリアリティ」。「数学的真実」というより「慣れ親しみ」です。「昨日あったように今日もあり、今日あるように明日もあるだろう」と思い做し、それが破られると、身構えのなさゆえにパニックになる。例えば「東から陽が昇ること」は「日常の自明性」ですが、原発絶対安全教においては「原発は絶対安全だ」が、全く同じレベルで「日常の自明性」を構成するわけです。
僕らの根っこの問題――「依存」
小林 自明性か......。自分の中で流行りそうだ(笑)。じつは僕が今日いちばん聞きたいのは、僕らの根っこにある問題と、今回の問題に対する処方箋なんです。僕も宮台さんも日本人でありつつ、海外の人間とのやり取りでだんだんわかってくるんだけど、日本は世界でもほんとに変わった国だと思うんです......。それは、僕らがちゃんと市民レベルで自分たちのあり方を選んできていないということなんです。僕がわかっていることで言えば、あまりに長く江戸時代が続いたっていうこと。300年も徳川幕府の都合っていうものを飲み込んできた国が、明治維新が起こって開国した。そこから富国強兵に向かって日露戦争とかを経て、エネルギー不足を理由にもっと強国になるっていう方向に行き、結局リーダー不在で、天皇という象徴的なものがあるところにリーダー不在がマスキングされ、予想された敗戦につっこんでいって最後は新型兵器まで落とされた。これがまた因果関係を生んでいくわけですが、その後いちばんこっぴどくやられた相手のアメリカにとっての優等生になりきり、経済発展すると今度はアメリカに生意気だって言われながらも成長してきて、そこまでずーっと流されるようにやってきている感じがある。
だけど結局、アジアのまだ貧しい国々が経済成長をはじめて、資本主義もそこまで進むと貧しい国も豊かな国もある程度フラットになっていくってことがだんだん見え始めて、 安く作って高く売るっていうそもそもの構造はそんなにいつまでも続かないだろうし、人としてそんな貧しさを踏み台にして豊かさをいつまでも享受しているってどうなのっていうのもある。人口増加の問題もあるし、貧しさからくる教育とか出生率に関わるいろんな問題も続いてる状況だし、結局いろんなことが自分に返ってくるってことがそれこそ自明の話としてなってるのに......。
宮台 そうですね。実際にそこから変われるかどうかってところに、かなり工夫がいるんですね。いま小林さんがおっしゃったように、僕たちの依存癖がどこから始まったかというと、江戸時代からなんですよね。
江戸時代は270前後の藩があって、幕府が藩に独立採算を要求し、武器や戦争にカネを使うかわりに灌漑設備や港湾設備などの共有財にカネ使えと要求し、各藩ごとに「外貨」―といっても藩外からのカネという意味だけど―を稼げる名産品を創造することを要求し、という具合で、とてもうまく回ってきたんですね。江戸幕府が誕生した17世紀初頭と言えば、ロンドンのテムズ川もパリのセーヌ川もドブ川で、人々は糞尿を窓から路上に廃棄し、ペストの温床にもなって、17世紀半ばのロンドンでは7万人以上が死にました。同時代の江戸は、上水道が整っていました。時代劇に出てくるような井戸はほとんどすべて上水道でした。糞尿も肥料としてリサイクルされていて、とても清潔な場所でした。その意味でも善政がしかれていたと言えるでしょう。ただ、ここで大事なのは、統治は全て人口5%の武士がやっていたこと。
農民による共同体自治は、生産労働の調整とお祭りだけで、ヨーロッパみたいな中世自治都市に由来する領主権力に対抗する共同体自治っていうのはありませんでした。 とはいえ、特に徳川初期三代があまりにも素晴らしい統治体制を構築したので、農民を中心とする人々はお上ないし武士に統治をお任せするのが当たり前になりました。明治維新以降、「江戸時代は封建的だった」と維新政府が喧伝するんですが、実は維新政府が使ったリソースの大半は江戸幕府から継承したものなんですね。ただ、維新政府の正統性を高めるために、事実とは異なる江戸時代の悪政を喧伝したわけです。新政府が継承したリソースのうち最大のものの一つは、お上や武士への「お任せ政治」のメンタリティです。恐ろしいことに、これは今に至るまで全く変わっていないわけです。
小林 なるほど、明治維新ではそんなに依存体質は変わらなかったんだ。
敗戦後の日本 弱者と「依存」
宮台 変わるチャンスがあったのは敗戦なんです。1952年にサンフランシスコ講和条約が締結されるまで、文部省仮検定教科書っていうのがあった。これはGHQの肝いりで作られたものなんだけど、GHQは日本人の弱点を見抜いていて、日本人に初めて「モノを考えさせよう」としたんです。たとえば現在の国語にあたる分野には、『言語』と『文学』という二つの教科書があり、『言語』では今で言うメディアリテラシー教育をしていました。マスコミ上のどんなメッセージも発信者の利害と結びつきがあるから、メッセージを真に受けてはいけないと教えていたんです。要は「批判の力」と「自治の力」の養成であり、妥当な価値と妥当でない価値を見分けるにはどうしたら良いかという教育です。だけど、1948年のソビエトの核実験成功、1949年中華人民共和国の成立、そして翌々年から朝鮮戦争が始まったことで、アメリカとしては日本を「極東の不沈空母」にする必要がでてきた。そこで、日本人がモノを疑わないように、妥当な価値うんぬんとは完全に無関係な知識、簡単に言えば社会を変えることに役立たないような知識を教えて、学歴競争させるという図式にしたわけです。
だから『言語』は廃止されて『文学』だけが残って『国語』と呼ばれるようになりました。
小林 そうなんですか。
宮台 社会を変えることに役立つ知識、妥当な価値を見分けることに役立つ知識って、どんなものか。 僕はよくフランスのバカロレア論述試験(大学入学資格を得るための統一国家試験)の例を出します。最近の問題で印象的なのは「正義は単なる約束事にすぎないのか否かを述べよ」「言語はコミュニケーションの道具に過ぎないのか否かを述べよ」で、それぞれ現代倫理学や現代哲学の最前線に通暁していないと解けない問題であると同時に、良い社会とばどういう社会なのかを考えることに直結する問題です。10年ほど前の問題には「弱者保護と環境保護が矛盾する場合について述べよ」っていうのが出ました。これはスーザン・ジョージが『世界の半分はなぜ飢えるのか』っていう本で提起した問題と同じです。彼女は「貧困問題を解決しなければ環境問題は解決できない」という定理を導きましたが、バカロレアの出題はこの定理を踏まえています。
宮台 最近では『
ダーウィンの悪夢』というドキュメンタリー映画で描かれた問題です。貧困な弱者が豊かな近代生活を送りたいと思う。そのためには外貨が必要です。そこで国際市場で売れる一次産品に特化していく。しかしこれら産品を買い付ける国際的ブローカーにはどこから買うか選択肢があるのに、ブローカーに買ってもらう側には選択肢がない。それで買い叩かれて墜落していく。でも既に森は切り拓かれ、土壌は農薬漬けで、もはやかつての自立した経済圏に戻れない。永久に国際市場に依存したまま買い叩かれて、貧困なままであるしかなくなります。構造的貧困と言います。構造的貧困に蝕まれた社会が環境保護を主題化することは無理です。そんな彼らに「近代の夢を見るのはやめろ、今までの自給自足でいいじゃないか」
って言うのは言葉としては美しいけど、無理なんですよね。文明っていうのは、その意味で不可逆です。ユーカラ(アイヌ民族の間に口承で伝えられる神話や伝説)みたいな形で、叙事詩を通じて教訓を確固として伝承しないかぎり、人はシャワーも浴びたいし、クーラーのある部屋で国際ニュースをテレビで見たい。映画の『
幸せの経済学』もそこがポイントになっています。「自分たちはこんなに調和して素晴らしい生活を送ってきている」って自負があったのに、文明に触れた途端、一挙に「自分たちは劣っている」っていう意識に変わって、犠牲を払ってでも文明化したいと思うようになるけど、それが構造的貧困という悲劇の始まりです。文明化された僕たちが「いや、環境が大切なんだ」と言っても無理なんです。
バカロレアの出題が参照しているのはその問題なんですよ。実際、文明国における、国外に向けた「フェアトレード」の実践と、国内に向けた「食とエネルギーの共同体自治」の実践がない限り、つまり「単なる贈与や再配分を頼らない持続可能な循環社会」を実現しない限り、弱者保護と環境保護の矛盾は解決できません。バカロレアが想定している回答も、そうしたものだろうと思います。日本の高校生は一人も正解できないでしょう。
小林 それはある意味で日本の原発が貧しい地域をねらって増えていった歴史と重なりますね。こないだ小出(裕章・京都大学原子力研究所助教)さんと祝島に行ってきたんですけど、あれは奇跡の島って感じがありました。
小林 まあいろんな要因があって。始まりはそもそも40年前に福島原発に出稼ぎのような形であの島から何人か行ってるんですよね。その人たちが戻ってきて、あれは酷いものだとちゃんと告発したっていうこと。それくらい縮図的にあそこの島が(原発建設の抵抗として)完結していると思えるものだった。まあ福島原発とのつながりも非常に因果関係があって面白いんですけども、それに加えてあそこのおばあちゃんたちの顔がね、気高いほど明るいんですよ。彼女たちの前で懇談会みたいなのやってきたんですけど、小出さんなんかは震災前から彼女たちは、つまり上岡原発は大丈夫じゃないかなって、つまり(建設計画は)失敗に終わるんじゃないかって言ってたらしいんですよね。それは、その生命力みたいなことを言ってるんでしょうけど。
宮台 生命力という言葉でおっしゃりたいことが分かります。「依存」からの離脱です。僕らは第三世界を旅行して「子供の顔が輝いてるね、日本も昭和30年代には子供の顔が輝いてたよね」っていうふうに言うじゃないですか。その理由も同じです。あの頃は〈システム〉がもたらす自明性がまだ低くて、今ほどは依存的じゃなかった。たとえば「この団地もちょっと前までは畑だったんだよ」とか「デパートがあったところも古くは商店街で」っていう具合に、今でいうAR(拡張現実)のように、過去の時空を、現在や未来の時空に重ねて見ていましたよね。自明性に依存するというより、建築中という境界状態で興奮しながら夢を見ていたわけです。だからこそ、新しいビルが建ち、ネオンが輝いたら、そこに僕の言葉でいうと「都市的エロス」が展開したわけです。
たとえば「夜中の遊園地」や「夜中のデパートのおもちゃ売り場」という魅惑と恐怖の両義的時空が、『ウルトラQ』や『ウルトラマン』に描かれたでしょう。そうした魅惑と恐怖の両義性が、子供の目を輝かせていたんですよね。 〈システム〉がもたらす自明性に依存した今の状態を離脱して、自分たちの社会を自分たちで作って維持する共同体自治の感覚を取り戻せば、おばあちゃんたちの顔も子供たちの顔も、かつてのように輝くようになるでしょう。ちょっと見では豊かで幸せな生活を送ってるのに、浮かない顔しているのは、我々が〈システム〉に埋没しているからです。自分で何をコントロールできるのか皆目分からず、何が自分で何が自分でないのか分からず、「こんな毎日がずっと続くのか」と。そういうとき、人はまったく輝かないんです。
宮台真司
社会学者。映画批評家。首都大学東京教授。
1959年3月3日仙台市生まれ。京都市で育つ。東京大学大学院博士課程修了。社会学博士。権力論、国家論、宗教論、性愛論、犯罪論、教育論、外交論、文化論などの分野で単著20冊、共著を含めると100冊の著書がある。キーワードは、全体性、ソーシャルデザイン、アーキテクチャ、根源的未規定性、など。
(撮影・取材・文/編集部)