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田中三彦×小林武史 震災被害から何を学ぶのか(2)
元原子炉製造技術者として福島第一原子力発電所4号機などの原子炉圧力容器の設計に関わった経歴のある田中三彦さんは、後にその製造過程で起きた問題を明らかにし、原発の危険性を訴え続けてきた。
updata:2011.12.19
「原発の安全神話」
技術者の倫理観を変えていかなければならない
小林 田中さんも含めてですが、その頃の関係者の方々はそんな危険な行為に対して何の疑問も持たなかったのですか?
田中 それが会社人と社会人の差だったと思うんだけれど。あの頃、会社人だった僕は、歪んだ容器をきれいに丸く直す計算に貢献することで一生懸命だった。それが上手くいって僕は社長賞をもらったりした。それで、天狗にすらなってしまうんですよね。 もちろん僕は、その作業によって原発の炉心の一番重要な部分がどれだけ劣化してしまい、実際に使ったらどういう危険を背負うのかということも当然会社には警告したんです。けれども、その責任は会社が背負うし、そうならないよう研究して対応していくと言われたら、それ以上には追求しなかったわけです。もともと、その問題を起こした原因は、我々の設計にではなくて製造部のミスだったんです。そうなると、僕としては製造部を助けたみたいなところがある。要するに、鼻高々なんですね。
悪いことをしたという責任感がない。これは組織の一員の心理というものでしょうか。自分で責任をとらないんですね。上の命令に従ったのだから、悪いのは上だろうという責任構造があって。責任感の喪失というのかな。見事にそれに僕はかかってしまっていたのだけれど。後に非常に反省して、僕は真実を明かそうという行動に出ましたが......。けれどもその時は会社のために頑張ろう、という気になってしまっているんですね。恐ろしいことですね。
小林 その組織構成というか、心理というのは、分かるような気がします。
田中 そしてこういうことはもちろん社内の極秘案件になるわけです。まず、社外に絶対に漏れないように、その作業についてはほんのわずかな人間しか知らないようにして進めていくんですね。毎日密かに会議をして、席に戻っても同僚にもばれないように気をつける。敵を欺くにはまず味方からということですね。
小林 しかし原子炉圧力容器なんて重要なものについてそんな細工をして、それを東電に納品するときにばれたりしないのですか?
田中 それがばれないようにまた様々なことをするわけです。
原子炉圧力容器を納品するには、国と東京電力の立会い検査があるのですが、製造の最終段階で歪みが発見されたので、まず立ち会い検査を延期する必要がありました。そこであの時は「溶接部分に問題が発生したのでやりなおしたい」と、ウソのない内容にすり替えて、立会い検査を数カ月先に延ばしたりしています。説明しなければならない関係者は大勢いますから、嘘に嘘を重ねていくわけですね。 そうやって、歪みを、技術的には脆性破壊が起きる可能性さえある、非常に危険な方法で直してしまったわけです。それを東電に、ひいては福島県に「はい、うまくできました。安全です。」と言って収める企業の神経がおかしい。
小林 その「会社人」だった田中さんが、どのようなきっかけで会社をお辞めになって、むしろ会社に反旗を翻して真実を明かそうと思うようになったのですか?
田中 僕の原発に対する考え方が「この瞬間に変わったな」と思ったのは、チェルノブイリの原発事故が起きたときです。それまでは実はあまり真剣に原発の是非について考えたことはなかったんです。1977年に会社を辞めたのは、それとは全く別な理由でね。簡単に言うと、もっと勉強して学者になりたかったんです。その辺りはあとで詳しくお話しますが。 まず、会社を辞めて2年後の1979年にスリーマイルの原発事故が起きました。でもあの段階でも、「原発というのは、ちょっと間違えると怖いことになるなぁ」と思う程度で、あれは極めて例外的な事故だと考えていたんです。そうしたら、1986年にチェルノブイリの原発事故が起きてしまった。
事故の直後に、ウラジミール・シェフチェンコさんという映画監督がチェルノブイリの事故現場に入って映像を撮影しているんです。ある程度の危険は承知だったろうと思いますが、当時のソ連の人々はたぶん放射能に対して今よりもっと無知だったのではないかと思います。それこそ、今でいうなら福島原発の1号機や3号機の屋上で長時間ロケをしているようなものですから、その後まもなく撮影クルーはみなさん亡くなってしまいました。文字通り、命がけで撮影した大量のフィルムがあるのですが、それを当時の竹書房の社長さんが素早く手に入れられて・・・。その映像をもとに写真集をつくるので、写真にキャプションを付けて欲しいという依頼を私が受けたんです。それで、シェフチェンコさんが撮影した何時間もの映像を食い入るように見ました。凄絶な事故現場や周辺の町や村の様子を。
小林 それはとても貴重な映像ですね。
田中 僕が一番、心を動かされたのは、やはり町や村の人々の姿でした。それまで普通の暮らしが営まれていたはずの町が、一瞬にしてゴーストタウンと化してしまっている状況や、一度は避難した農家の方々が、暮らす場所も食べる術もなくなって結局は家に戻り、とても汚染度が高いであろう川で釣った魚を食べたりしている現実とか。そういう映像を観たときに、今まで僕が科学や技術という側面だけで見ていたのとは違う原発というものが、そこにはあった。原発と社会というものが非常に脆弱な壁でプロテクトされていて、それがひとつ破れるととんでもないことが起きるということを改めて強く感じました。
小林 あの時、日本の、いわゆる原発推進派の方々などはどういう反応をしていたんでしょうね。
田中 電気事業連合会が何を言ったかというと「日本の原発は安全です」「あれは違法な運転をしたから起きた事故です」ということでしたね。要するに、企業と電力会社と国が一体化した原子力ムラが、安全キャンペーンをするわけです。
毎日のように、1ページ1億円もするような大広告を新聞なんかに載せてね。僕はそれを見ながら「そんなバカなことはないだろう」と思った。日本の原発だって、チェルノブイリのような事故は起こり得る。むしろもっと悪い事故の可能性だってあるかもしれないぞ、と。原子力ムラがそれを隠すなら、これは僕も発言しなくてはいけないと思ったんです。
小林 態度を表明しようと決意されたんですね。
田中 まず、『世界』という雑誌に「原子炉安全基準の虚構」という論文を書きました。内容的には当時ほとんど論じられていなかった原発の「安全神話」について書いたものです。実際その言葉も使っています。チェルノブイリの原発事故に対する表明のようなつもりで書いたんですね。それを見て、原発関連のシンポジウムに声をかけられたのが1988年のことです。原発推進派2人と、原発反対派2人が壇上で話し合うというものでした。僕は広瀬隆さんと一緒に、原発反対派の人間として壇上に上がりました。
小林 そこで、14年前に行われた、原子炉圧力容器の歪み矯正事件のことを初めて公にされた。
田中 はい。あの時、僕は相当思いつめていましたね。自分が元いた会社に殺されるかもしれないなと、冗談じゃなく思いました。
小林 とても衝撃的な告発でしたよね。本当に、身を捨てる覚悟で挑まれたことだと思います。
田中 あの時のことをよく内部告発と言われるのですが、正確には違うんですね。僕はもう会社を辞めて外部の人間になってしましたから。いまなら内部告発を守ってくれる法律があるようですが、僕の場合は一度会社を辞めてしまっているし、時代もちがうし。だから一人で戦わなければならない。正直、非常に怖かった。色々な人から気をつけろという注意を受けましたよ。僕はオートバイに乗っていたけれどブレーキホースを細工されていないか確認しろとか、地下鉄のホームに立つ時はできるだけ壁際に立てとかね(笑)
小林 本当にそんなことがあるんですか。
田中 実際、脅迫電話は何度もありました。当時の電話にはナンバーディスプレイなんて機能はありませんから、防ぎようがありません。たまには本当に用事があったりするから、電話が鳴ったらとりあえず受話器を取らなければならない。
ひどい時は電話がかかると10本に1本は脅迫電話でしたね。「家族の命をどう思っている?」なんていうね。あからさまに「死ね!」なんていう電話も来ましたよ。僕の義理の兄が日立製作所の某工場に勤めていたのですが、名字の違う彼のところにまで「義理の弟の発言を止めろ」という電話がかかってきました。名字がちがうのにどうして親戚であることがわかるのか。大会社はCIAみたいなところだと思いました。
小林 すごいな。そういうプレッシャーもある中、ある種、過去に自分がしてきたことを否定しなければならないということを続けるのは容易ではないですよね。
田中 僕は、チェルノブイリ原発事故をきっかけに、技術的な見解でも、倫理的な意味でも、日本の原発をなんとかしなければいけないと思いました。同時に、日本の技術屋の倫理観みたいなものも、変えていかなければならないなと思ったんです。先にも話しましたが、良くも悪くも技術バカが多くて、自分の造っているものが社会でどういう風に使われ、社会をどう変えていくかが分からない人が多い。技術屋というのは、自分の造ったものがモノになったり使われていったりするのを面白いと思うんですね。でも、面白いということと、そういうものを本当に造っていいかということは同じじゃない。時には越えてはならない壁がある。
小林 そういう問題というのは僕はあまり知らなかった。非常に興味深いところですね。
......田中さん、実はもう、今日はお約束頂いていたお時間を既にかなりオーバーしてしまっているのですが、まだまだ聞きたいお話がたくさんあります。よろしければ近々、続きをお話できませんか?
田中 僕もまだ半分も話せていません(笑)。ぜひ続きをまたお話ししましょう。
田中三彦
翻訳家、科学評論家。元原子炉製造技術者。
東京工業大学工学部生産機械工学科卒業後、バブコック日立に入社。同社にて、福島第一原子力発電所4号機などの原子炉圧力容器の設計に技術者として関わる。1977年退社。その後はサイエンスライターとして、翻訳や科学評論の執筆などを行う。「柏崎刈羽原発の閉鎖を訴える科学者・技術者の会」呼びかけ人。
2011年12月8日、国会に設置された「東京電力福島原発事故調査委員会」の委員に任命された。
(撮影・取材・構成/編集部)