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吉川晃司×小林武史 「大事なのは反応していく力」

吉川晃司×小林武史 「大事なのは反応していく力」

ap bank fes '12 Fund for Japanに出演が決まった吉川晃司さんと、「吉川さんに出演してもらいたいと思ったのは、何かに反応していくスピードや大胆さ、格好良さ、そういうものを持っている人だと感じたから」と語る小林との対談。人間が退化しないために必要なものとは?

updata:2012.07.04

変えられるものは必ずある

小林 もしかすると僕、昔、吉川さんのレコーディングでキーボード弾いたことありませんでしたっけ?

吉川 どうでしょう? 僕、デビューしてから2枚目くらいまでは、レコーディングに顔を出していない時もあったので......。

小林 その頃は、テレビだなんだと、ものすごく忙しくされていた時期ですよね。

吉川 そうですね。その頃はまだ、会社にも周りにも、僕が音楽を自分で作っていくように捉えられていなかったこともあって。だから覚えていないのですが、もしかしたら弾いていただいていたのかも......。

小林 そうかもね。いずれにしても、僕らは(この音楽業界で)すごく近いところにいましたよね。色々と共通のミュージシャン繋がりがあったりして。

吉川 菅原さんとかね。(近年、吉川さんのアレンジを手掛けている人物。小林もよくプログラミングなどで昔お世話になった方)
小林 木崎さんとか。(沢田研二さんなどのヒット曲や、その後も数々のアーティストを世に出された名プロデューサー)

吉川 あ、木崎さんのこともご存知ですか?

小林 一応、知ってます。大先輩だから。こんなこと話したら怒り出すかもしれませんが......。

吉川 小林さんの中で、僕、どんな人格ってことになってるんすか?(笑)

小林 いや、違う違う(笑)。木崎さんは、吉川さんにとって一番最初のプロデューサーでしょ? そういう人とは、どんな出会い方や別れ方をしているのか事情がわからないからね。

吉川 あ、なるほどね。いやいや、彼はものすごい才能がある方で、流行に敏感というか、ポップスってものを扱わせたらいまもすごいですからね。ただ、僕も、デビュー当時はまだ18歳で、訳がわからないじゃないですか。
そこから段々、自分の思考が形にできるようになってきた時に、いわゆる「世にウケるものを作りたい」というところと自分の想いが反比例していったというか......。そのへんでまあ、意見の相違が生まれてきて離れたのですが、いまだに尊敬しています。

小林 なるほどね。それにしても、吉川晃司と言えば、まあ一貫してフィジカルなところというか、音と身体とで、この人独自の反応がいつも起こっているんだなっていう感じがあります。天性のものを授かっているのもすごいけど、ある意味素直というか......。

吉川 真っ直ぐでしょうね。ピッチャーになっていたら、"ストレートでストライク"か"デッドボール"しか投げないよっていうような。そういうところはあると思いますね、多分に。

小林 その、"デッドボール"的な側面も、なんとなく外側にいる人間にも伝わってくるところもある(笑)。そういうのも含めて正直な人だなと。吉川さんのファンって、そういう所が好きなんだよね。
吉川晃司×小林武史 「大事なのは反応していく力」
最近出会った音楽業界の女性がね、吉川さんの昔からのファンだと僕に告白してですね、「ほんと、男を感じる」って言ってましたね。加えて、本当はちょっと弱いところもあるのかな、と思わせるところがあったりするのも、女性ファンにはたまらないんだと思いますが。

吉川 はあ......。

小林 つまり僕が言いたいのは、男だし、人間の匂いをものすごく持っている人という意味ですけど。

吉川 そうですね。自分にとっては、例えば「歌」はもっとも大事なもののひとつですけど、それ以前に「己」がどういうものであるかということが大事なんですね。ガキの頃からそこは譲れないところがあって。ただ人間というのは環境あっての生き物ですから、己が置かれた環境に、悪く言えば毒される。そういうことで自分が曲がってしまうことを良しとできなかったんですよ。
周りによって変えられてしまう自分がイヤだという思いがものすごい強くて。だからピンボールの玉みたいな人生ですよ。ぶつかっちゃ跳ね返る。で、ぶつけられたときに「とりあえずスピードだけ増してやる」って。その次どこに飛ぶかはわからなくてもね。

小林 ははは。でもね、日本が調子よかった時代というか、景気がよかった時代には、割と緻密に計算が効く人達が護送船団と言われつつも大手を振っているというか、場所取りを上手にやっていたじゃないですか。それが今は頭を垂れるみたいな状況になっていますけれどね。そんな中で吉川さんは、ずっとピンボールのようにやられてきたんでしょうね。

吉川 うーん。
小林 今は首相もどんどん替わっていく。昔は違いましたよね。別に田中角栄さんのことを賛美するつもりはないけれども、男が本来果たさなくちゃならない役割みたいなものが、今よりあったと思うんです。

吉川 そう思います。

小林 戦後も、男の意思を発揮してきた人はいたけれど、段々と男の足場もどんどん見えなくなってきていて、どこに足場をかけたらいいのかわからなくなってしまっているような......。僕、いみじくも覚えているのが、2011年の2月くらいの段階、つまり東日本大震災の直前の世論調査で、(前首相の)菅さんの支持率が16%くらいまで落ちていて、なのに「それでも首相は替えないほうがいい」という意見が40%を越えていた。
支持はできないけれど、誰に替えていいかもわからない。混迷もここまできたかと思った記憶があります。それは無力感だったと思うんですよ。3.11の直前に、すでに日本の中に占めていた無力感というのを、僕は少なくとも感じていたんです。そして、その直後に3.11がやってきた。

吉川 おっしゃることは良く分かります。ここからじっくり話しだしたら、明日の朝くらいまでかかりそうだな(笑)。

「恥知らずの人々」の時代

小林 今日、吉川さんにお聞きしたいのは、3.11後のことです。いろんなショックがあったと思うんですが......。

吉川 簡潔に言いますと、僕の中でものすごく、悔やむ思いが生まれたというか。僕ね、たまたまいろんな機会やシチュエーションが重なって、震災直後に現場に行くことができたんです。人間死ぬ時に、走馬燈のように様々な場面が浮かんでくるっていうじゃないですか。その、震災直後の被災地で見たものは、その時に最も大きな場面として出てくるだろうなというものでした。その絵は、己の想いとかを、そこに挟める余地のあるような焼き付き方じゃなかったんですよ。そうした時に「自分がやれることはまずやらなくちゃ」って思った。もうひとつは、知らなくて愚かだった自分を「知らなかったんだから勘弁してくれよ」で済ませたくないなと思ったんです。 僕は、復興と放射能問題は同一線上に置かないといけないと思っているんです。もちろん、我々にも責任があると思うんですよ。このままでは未来を担う子どもたちにマイナスの遺産ばっかり押しつけたまま、僕らはあと数十年もしたら死んでいなくなってしまう。
臭いものに蓋をするように、顔を背けて知らん顔してそのままいなくなってしまったら、僕は恥知らずだなと思った。これまでの時代は「恥知らずの人々」の時代だな、と。

小林 なるほど。

吉川 いろんな人間がいるから様々な考え方があるのは当然ですけど、僕はそれがたまらなく屈辱なんですよ。一人の男として、いろいろとヘマもやりましたけど、でも自分なりに誇りを持って生きているわけです。でもその誇りが木っ端みじんになってしまうぐらいのことだと思った。まあそんなこと言ったって大した戦闘力もなければ、力も知れていますが、やれることはやろうと思ったんです。 人災としての放射能に対する考えとか、復興支援ということも大事ですが、僕が一番危惧しているのは、根源的な日本人の性質に関わる部分なんですね。日本人ってよく言えば「和を以て尊しと為すべし」なんですが、一方で従順過ぎるところもあると思うんですよね。お上の言うことはみんな正しいと思って従う。
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吉川 そして何よりも恐いのは、ものすごい大惨事はきっと起きないだろうと何故か思っちゃう性質が昔からあってね。で、結局ダメな指揮官にだまされて命を落とし、犠牲になっていくのは、民なんですよ。これは長い歴史を見ても、まったく変わっていない。「みなさん、いまも繰り返してますよ」「ここで頑張らないとまた犠牲にされますよ」ということを伝えていかなきゃなって。

小林 昔はよしとされた「和を以て尊しと為すべし」も、近代では、みんなで同じ方向に行ってそこが間違えていると一気にベシャンとやられちゃうみたいなことを繰り返している。だから大事なのは、反応していく力だったり、生き抜いていく力だと思ってるんだよね。

吉川 うんうん。

小林 吉川さんは広島出身なんですよね。

吉川 僕は被爆二世になります。実家は原爆ドームと川を挟んで真向かいの場所にあったそうです。
ただ、僕もそれを聞いたのは一昨年なんですよ。それまで両親はそういう話をしてくれなかったんですね。広島では、ピースコンサートなどが毎年ありましたけど、僕はそういうのに出演したこともなかったんです。そういうのって、むしろ胡散臭く感じていたんですよ。だから一切そういうところには、関わってこなかったというか......。

小林 たしかに、"きれいなこと"を伝えようとすると、難しいよね。

吉川 そうなんです。小林さんはap bankをやっているから、よく分かっていらっしゃると思いますけど。ただ僕は、震災後にそこがガラッと変わったわけです。僕が今まで言ってきたことなんか結局小さかったな、というか。もっと大きい視野でものを見ないと、自分がどんどん偏屈なおっさんになっていくだけなんじゃないかと。

小林 それは僕もあるね。震災後、小異を超えてっていうか、今まであまり交流がなかった人とも繋がるようにしたりね。
吉川 そうするべきですよね。だから、清濁も併せて、その向こう側にある大義というか大きな真実に絶対辿り着かないと。「そのくらい越えろよな」って言っている自分がいる。

小林 ほんとにね。ある意味、僕らは日本に原爆を落とすと決めたアメリカと、その後ほとんどの機会において笑顔でやり取りをしてきたという気もしますもんね。

吉川 まあ、アメリカの音楽に憧れていた部分もありますしね。

小林 そうですね。でもいま、福島のことの痛み、歪みというものを感じることが多くなってきたから。今年、沖縄返還40年ということもあり、沖縄の人の痛みというものもね。まあ、さっきの吉川さんの話と同じように終戦の時、沖縄の一部の人たちが集団で自決していたっていうのがいくつかの場所であったんだけど、そのことも話せなかった人たちがすごく多かったらしいです。

人の営みが何よりも先にあるべき

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小林 今回、吉川さんにぜひap bank fesに出演してもらいたいと思ったのは、男が持っていたい、何かに反応していくスピードとか大胆さとか格好良さとか、そういうものを持っている人だなと感じたからです。そうあるべきだなというか、そうじゃないと退化していっちゃうよ、と。どんどんつまんない社会になっているともいえると思うし。

吉川 退化しているんですよ、人間は。確実に退化しているのに、進化していると勘違いしている。

小林 でもこれの大きな歯車になっていたのが経済でね。経済っていうことの効率を求めていくと、同じようなものを同じようにパクパク食べてくれる、キツい言い方をあえてすると"家畜化"していったほうが、効率がいいんですよ。

吉川 チャップリンが言ってたようなことですよね。"家畜化"していっている。そういう時、小林さんはどちらに立ちたいですか? 民衆の側に立つのか、それを使う側に立つのか。
小林 僕は人の「営み」っていうのが何よりも先にあるべきだと思ってるんですよ。父親と母親、その二人がいなければ自分は命を授からなかった。命を授かること自体が奇跡的なことだから、自分の生かし方さえきちんとすればこんなにラッキーなことがないと僕は思うわけですよ。一方でこの時代ってジャスミン革命とかもそうですが、「あなたのところに爆弾を落としたいと思ってないのよ」みたいな声がネット上で出てきたりね。ネットは悪意に満ちているとも言われるけれども、決してそれだけではないと思う。

吉川 それはそうだと思いますね。

小林 一部の、戦争を起こすような人間でも、ウォール街でお金を操作する人間に対しても、歯止めをかけるということはできると思うんですよ。

吉川 うん。

小林 アジア的な暮らし方というのは、「営み」をずっと重視してきたのではないかと思うんです。
小林 僕はそういうアジア的なものと西洋的なものが融合していくことをずっと前から願っているんです。それがアジアの人間が今後やるべきことだし、たぶん日本っていうのは極東の中で、引き算の美学とかね、そういうことのバランスを取ったりすることに長けてきた国だと思うんですよ。

吉川 うん。

小林 やり方も考えなくちゃいけないんだと思いますけどね。既にもう、「喉元過ぎれば...」という感じも見えてきていますから。まさかこの人がという感じだったけれど、野田総理が原発の再稼働を、あんな古典的役者みたいな表情でヌラッとやったわけでね。あれはショックでしたよ、本当に。いや再稼働のことはね、この夏の電力の足りなさが関西においてどのくらいになるのかが、「このぐらいで済みますから」って言える人がいないじゃないですか。
吉川 前に小出(裕章)さんとお話されてましたよね? 小出さんは現存の発電量で日本の電力は十二分に賄えるはずだっておっしゃってましたよね。

小林 そうですね。ただ、「はず」ではあるけれど、暑さ次第でどうなるかというのは、なかなか言い切れないところがやっぱり恐いと思うけれどね。

吉川 まあ、うんうん。

小林 だから橋下市長もね、ちょっと日和った形になったけど。

吉川 そうなんですよ、なんで彼は急にああなったのかって、そこ僕も知りたいんですけど。

小林 やっぱりね、中小企業からの嘆願がすごかったんでしょうか。
本当に倒産せざるを得なくなるっていうような話もあったのかもしれないですね。 まあでももっと言えば、産業界の仕組みが、中小企業も含めて複雑にできているんだよね。だから少なくとも今回の夏は、試してみないとわからない。再稼働して試すにせよ、再稼働しないにせよ、やってみないとどうなるか分からないとは思っていたんですよ。僕も、十歩ほど譲ってね。だけど検証してみましょうよ、と。だから橋下さんと同じように、夏の稼働は認めるにしても、この先、継続的に使うということは、政府もまだ言えるわけないと思ってたんだよね。そしたらなんのことはない。喉元過ぎれば、政府は「日本に原子力は必要な電源だ」と明言し、「継続を前提にした話だ」とも言い、「私はこの国民の日常を大切に思ってるんです」という。もう、なんと言ったらいいのか......。

吉川 本当に国民の日常が大事だと思うんなら、その場で、それは言うことじゃないだろうと思いますけどね。
吉川 ただね、どんなふうにだってごまかせるじゃないですか。結局、民に真実が伝わらない方法論っていうことです。特に悪い連中は知恵を絞ってるわけですよ。悪いやつっていうのはこういう時に眠らず働くから。 真面目なやつはもっと働かないと悪いやつに勝てないんです。民衆は、どうせ自分たちには手が届かないし、正しい情報を入手する方法論を見つけられないから「結局、お任せしますって言うしかないよね」ということになっちゃうんだろうし、国はそれを待っているわけでしょ。民から何かを起こさない限り、変わらないんだろうなと思う。 この国には、民衆が国家を倒したという歴史は一回もないんですよね。でも今は黙ってるわけにはいかない。未来の人々に、責任を取れないことを押し付けたまま死ぬわけだから、それは卑怯ですよ。僕はそれを知らなかった自分を悔いたしね。 ヒステリックに伝えようとすると人は目を閉じ、耳をふさぐ。だからそこにエンターテインメントという伝え方があるというか......。笑ったり泣いたりしている間に、「そうだな」って思ってもらったら、いいなあって思う。
吉川晃司×小林武史 「大事なのは反応していく力」
僕のやれることってその程度のことかもしれないけど、でもそれって意義のないことではないなって思うんですよ。

小林 そうだよね。

吉川 あとね、温故知新というか......。基本に帰らないといけない気がしてます。便利というものを着ぶくれて、楽しちゃったわけじゃないですか。明治や大正生まれの人たちが一生懸命戦争して、生き残った人たちが「死んだ戦友に申し訳ない」と言って頑張って、スピードを上げて復興してくれた日本。それが出来たところに生まれた我々は、そんな苦労は知らないからどんどん腐らせていく。結局果物と一緒で、熟れすぎたら腐るしかないじゃないですか。文明なんてたぶんそういうことなんじゃないかな。アメリカ型の資本主義の形態も、リーマンショックとかがあると、「あ、こんなに不平等で実はひどいんだ」っていうのが段々わかってくるわけだし。それに追随してきた日本の在り方も、やっぱり腐って落ちていくとしか思えないです。
そういう時に、「昔の人の知恵ってもっと素晴らしいものがあったし、自然から学ぶものってもっと素晴らしいものがあったのに、忘れてたよね」ということを、今、声に出して言ったりしている方たちを、僕は素晴らしいと思いますよ。

小林 本当にそのとおりだよね。

吉川 僕ね、無人島で暮らしていた時に第五感っていうのが...。

小林 え? 無人島で暮らしたことあるの?

吉川 テレビの企画でね。これほんとに、生きるか死ぬかだったんですよ。その時にね、「気配」というものを、改めて感じたんですよ。十日くらい経ったら、虫が動いてもわかるようになりました。マンションで生活してるとそんな感覚はいらないから、心配しないでしょ。ところが、そういう場所にいると、ちょっとずつそういう感覚を思い出して、わかるようになってくるんです。
ちょっとヘンな話に聞こえるかもしれないですけど(笑)、ああ、こういうことが失われてきているんだな、だから人間って退化しているんだなって思ったんですよ。だから、最初に話が戻りますが、放射能云々ってことを話す前に、もっと根源的な在り方から、考え直してみないと。

小林 もうちょっと社会自体が、楽するだけじゃなくて鍛えていくみたいなことをしないといけないよね。仲間というか家族というか友だちというか、村でも町でも社会としてやっていこうとしないと、面白くないんですよね。音楽を演奏するのもそうだし、みんなでスポーツをするのもそうだけど。

吉川 そういう人たちがどんどん立ち上がるのはいいんじゃないですか。そりゃあ、主義主張はみんなそれぞれですよね。ただ、どんどんそういう人たちがたくさん立ち上がることによって、変えられるものは必ずあると思います。

小林 そうですね。
吉川晃司
吉川晃司
吉川晃司

1984 年に映画『すかんぴんウォーク』と、主題歌『モニカ』でデビュー。ランキング上位をにぎわせる中、1988年ギタリスト布袋寅泰とのユニットCOMPLEX を結成。独自のボーカルスタイルで、ロックアーティストとして不動の地位を確立した。近年は、俳優としても高い評価を得る。2011年7 月には、21 年ぶりの復活となったCOMPLEX の東京ドーム公演を東日本大震災復興支援のために開催。以降も自らの活動を通して支援を続けている。
http://kikkawa.com

(撮影・取材・構成/編集部)

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