HOME > FEATURE > 緊急企画「LOVE CHECK/energy - 今だからこそ、のエネルギーのこと-」 > 田中三彦×小林武史 震災被害から何を学ぶのか(1)
元原子炉製造技術者として福島第一原子力発電所4号機などの原子炉圧力容器の設計に関わった経歴のある田中三彦さんは、後にその製造過程で起きた問題を明らかにし、原発の危険性を訴え続けてきた。
小林 田中さんは、元々は日立の原子炉製造技術者でいらっしゃったんですよね。それがいつ頃のことですか?
田中 1968年〜1977年までですね。正式にはバブコック日立という会社です。バブコック&ウィルコックス(B&W)というのはアメリカにある原子力発電や火力発電を作っている会社で、ウエスティングハウスやGEと並んで、原発メーカーでは3番目くらいに大きな会社なんです。イギリスにあるその兄弟会社と日立が半世紀以上前に合弁して作った会社だったんです。アメリカのB&W製で有名なのはスリーマイル原発ですね。
小林 僕が今日改めて田中さんにお聞きしたいのは、そもそもなぜ原子力の世界に入られて、何を疑問に思ってそこを出たのか? というところなんです。
田中 入社したのは、1968年。僕が25歳の時です。その頃日本は、何でもかんでもアメリカアメリカ、という時代だったんですね。
それから、戦後の高度成長期の中で、技術的に立国していかなければならないという風潮があった。
その中で、僕らのような工学系の学生というのは"エネルギー立国"ということばかりを考えていた気がします。石炭はあと30年分しかない、石油ももう何年ももたない、これからのエネルギーは原子力だ、とね。
小林 小出裕章さんも同じようなことを仰っていました。
田中 そうでしょう。ただね、僕は小出さんほど明確に原子力を志向したわけではないんです。国のため、世の中のためになるような仕事をしたいということを漠然と考えていた。工学部の学生というのはね、会社に入った後、自分がテレビを作るのか原子力を作るのか選べなかったんですよ。会社に入って三カ月くらいの研修を受けたあとに、人事課から、「君は◯◯課に行って」といわれる。そこで初めて、「僕は洗濯機を作るのか」とか、「あ、原子力なのか」と。そういう時代だった。そこからその人は与えられた仕事をなんの疑問も持たずにやっていくわけです。
小林 なるほどね。原子力専門の会社に入るわけでなければ、そうなりますよね。
田中 僕も大きくはその流れで、原発や火力発電の設計をやることになったんです。9年ほど。だけどね、その9年間の間、僕は社会人ではなかったんです。それは会社の外に出てから気づいたことだけど、"社会人"ではなく、"会社人"だった。社会人と会社人の違いというのは大きい。
例えば会社人は、会社という塀の中に入ってタイムカードを押したら、そこからもう10何時間と、他の社会の人たちから隔絶された世界に入ってしまう。特に工場なんていうのは企業秘密が多いから、外部の人をいれない。逆に、僕の妻はいわゆる専業主婦だったのですが、1日、家で何をしているかというと、買い物に行って、少しでも安くていい野菜を選ぶために八百屋のおじさんと折衝したり、押し売りがきたら追い払ったり、子供の学校に先生の話を聞きにいったり、子供の喧嘩の仲裁に入ったりと、いろいろなことをしているわけです。
小林 そうですね(笑)
田中 だから、世の中の仕組みをよほどよく知っている。銀行にも行っているから、金利がどうの、景気がどうの、なんてことについてもね。彼女たちは社会人なんですよ。僕たち会社に勤める会社人は、ただひたすら会社で仕事のことを考えている。そして、それが偉いことのように思ってしまっている。当時は会社に女性はほとんどいませんでしたから。当時は、鉛筆削りやコピーやお茶は女性社員の仕事、なんていう文化もまかり通っていたんです。だから男にとって会社は居心地がいいわけですよね。今はもう大分変わったと思いますが。
小林 でも今でもそういう男性は多いかもしれないですね。会社人、というね。
田中 例えばね、僕らの設計した原発が福島に実際に建てられるまでには、現地では大変な騒ぎが起きるわけです。「そんなものは怖いから要らない」という人たちと「街が非常に潤うからあった方がいいんじゃないか」という意見に分かれて様々な対立が起こる。けれど、僕らはそういうことまで知らないんです。原発を作っている技術者達は、原発反対と推進の運動をしている人たちの利害関係や本音を知らない。知ろうとしていないという方が正しいかな。もちろん反対派の人たちが大勢いることは分かっている。だけど当時僕は、「技術的に分からない人が反対するのだ」と思っていた。何を根拠にそう思うかというと、たぶんふたつあって。ひとつは、先ほどの"会社人"です。社会を広く見ていないんですね。そしてもうひとつはね、我々は非常に一生懸命働いていた。それこそ1カ月に100時間を越える残業をしながら、寝食を忘れて仕事に没頭していた。
その、自分たちが一生懸命にやっていることを否定されるのは非常に辛いわけですよ。
小林 なるほどね。
田中 だから、「反対している人は、技術的なことが分かっていないのだろう」という傲慢なことを思ってしまうわけですね。我々が、非常に難しい計算もして、きちんと造ったものですから、分かってくださいという気持ちになるんです。だから、ちゃんと説明すれば分かってくれるのではないかという思い上がりがあるんです。
小林 そうですね。その気持ちはわかる気がします。
田中 僕がどうして原発の道を選んだのか、というご質問に戻りますけどね。先ほども言ったようにある意味、偶然なんです。僕の場合は会社に入って1年後に原子力の設計と関わるようになった。そこでエネルギー立国を目指すなら原子力がいいんじゃないかなという考えになって、そのまま仕事にのめり込んでいく。あの頃、僕の周りの同僚で、自分から「原発が作りたいです」と手を挙げて入ってきた人は珍しかったと思いますよ。小出裕章さんのように、始めから「原子力の世界で貢献したい」という強い確信を持って道に進まれる方は、僕の周囲にはそう多くなかったと思う。
小林 確かに、小出さんは科学の未来への貢献というところに惹かれて原子力を最初に始められたと仰っていました。でも、このまま続けていくと、彼がやろうとしている科学は人を裏切ることになるだろうということに気がついて、原子力を批判するという真逆の立場になられた、と。
田中 そう。小出さんは本当に偉い方だと思います。そこは、僕みたいな機械工学屋と原子力の工学屋さんとの違いだと思います。原子力工学屋さんは、科学的に地球の未来を考えるという姿勢で、ひたすら原子力と向き合ったんでしょう。でも機械屋っていうのは幅広く何でもやる。会社の配属次第で、原発も作るし、自動車も作る。当時はオートメーションという言葉が出始めてね。カラーテレビやクーラー、自動車など、目覚しい進歩を遂げていた時代だった。機械工学者達はそういう最先端の技術への憧れみたいなものも強かったわけです。
小林 よく分かります。日本がぐっと"豊かさ"の方向に向かっていく時期ですね。
日本は今以上に、行政は行政、技術者は技術者とそれぞれ分離していて、そこが縦に繋がっていた。上から「こういう方向でいくのだ」と降りてくると、それを受けた現場はその是非を検証することもなく、遮二無二になる。これは、原子力工学の世界だけではなかったと思うんですね。
田中 そうですね。
小林 でもそれは悪いことだけでは決してなくて、本当に戦後の日本人は、一生懸命頑張ってきた。みんな、とても努力していたわけで。だからこそ、反対されれば傷つくし冷静に全体を捉えることも難しくなるわけです。田中さんもジャズがお好きとのことだからお分かりになると思いますけれど、みんなそこそこに痛みと汗と涙のブルースがあると思うんです。そしてそのまま定年まで走り続けた人達もたくさんいると思う。だから、その中で田中さんが「もしかしたら違ったのでは?」と思って方向を変えるということをされたのが本当にすごいと思っているんです。
小林 田中さんは著書『原発はなぜ危険か』(岩波書店)の中で、「原子炉圧力容器の"ゆがみ矯正事件"」について書かれていますね。福島第一原発4号機用原子炉圧力容器が製造過程のミスで楕円形に歪んでしまったけれど、それを一から作りなおす時間も費用もないということで、無理やり体裁を整えてそのまま原発に使用してしまった。この出来事の詳しい話や、それを当時、原子炉圧力容器設計技師として関わっていた田中さんが公表しようと思うようになった経緯を知りたいのですが。
田中 僕が20年以上前にいわば"外部告発"した問題ですね。僕の会社が造った東電・福島第一原発4号機用の原子炉圧力容器の断面が、丸い円になっていなければいけないものが少し歪んで楕円に出来上がってしまった。それをこっそり直して東電に納めた。
小林 まずは、その事実のどのあたりが問題だったかということなんですが。
田中 歪んでいたって直せばいいじゃないかと思うかもしれませんが、形の問題じゃないんですね。材料(鋼)の強度に関わる大変な問題なんです。原子炉圧力容器というのは、その中でウラン燃料が核分裂を起こす部分なので、すごくエネルギーの高い中性子が鋼に向かって日夜当たっているんです。要するに、時々刻々被ばくし続けている。そうするとどうなるかというと、金属の中が言ってみればガサガサになってしまう。小林さん、カルメラってお菓子をご存じですか?
小林 はい、なんとなく。
田中 あれは硬そうに見えるけれど、落とした瞬間にポロっと割れるでしょう。ああいう割れ方のことを脆性破壊(ぜいせいはかい)というんです。鋼には脆性破壊と延性破壊(えんせいはかい)というものがあってね。延性破壊というのはギューッと引っ張ると大げさに言えば飴のように伸びて、伸びた部分が細くなったあとにプチンと切れる。けれど、脆性破壊というのはそうではなくて、ちょっと引っ張ったらパリンと割れる。
ガラスの割れ方がそうです。原発の原子炉圧力容器というのは、最悪の場合、この脆性破壊を引き起こす可能性があるです。原発を運転しているときに圧力容器がバリンと割れたら、これはもう大事故です。だから、それが起きないように、設計技術者たちは、どんな材料でどのように造ったら割れない圧力容器になるかということを、一生懸命考えるわけです。
小林 どれくらいの大きさのものなんですか?
田中 問題の4号機の原子炉圧力容器は直径が5.6メートルくらい、高さが20メートルくらいで、重さが600トンくらいのものです。容器の断面が丸くなるように造るというのは、直径の短いところと長いところの差を何%以内に収めないといけないという法律上の約束事があるんです。最後は国の立会いのもとでそれ(真円度)が検査されます。検査で国が「これは安全な原子炉圧力容器だ」と認めてくれないと、一から作り直さなくてはいけないんです。そうなればそれには大体、3年くらいの年月と、今のお金で何百億円という費用がかかるんです。
それはもう会社が潰れてしまうような損害になりますよね。それで、極秘のうちにそれを文字通り丸く収めてしまおう、となるわけです。その作業によって材質が劣化してしまうことは無視してね。
小林 それはつまり、安全性が低くなることを承知のうえで、とりあえず楕円の容器を丸くして、何とか取り繕ってしまったということですか?
田中 はい、そういうことです。歪みを直すために、本来ならやってはいけない余分な熱処理をやって材料を痛めてしまっているんですよ。なんとか形は丸く収めたけれど、その代償として圧力容器の材質を著しく劣化させたんです。あれが30年、40年と持つかというのは非常に疑問でした。まあ、今回の地震で壊れてしまったのでその心配がなくなってしまったのですが。
田中三彦
翻訳家、科学評論家。元原子炉圧力容器設計技術者。
東京工業大学工学部生産機械工学科卒業後、株式会社バブコック日立に入社。同社の広島県呉工場にて、福島第一原子力発電所4号機などの原子炉圧力容器の設計に技術者として関わる。1977年退社。その後はサイエンスライターとして、翻訳や科学評論の執筆などを行う。「柏崎刈羽原発の閉鎖を訴える科学者・技術者の会」呼びかけ人。
2011年12月8日、国会に設置された「東京電力福島原発事故調査委員会」の委員に任命された。
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