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田中三彦×小林武史 震災被害から何を学ぶのか(4)

田中三彦×小林武史 震災被害から何を学ぶのか(4)

元原子炉製造技術者として福島第一原子力発電所4号機などの原子炉圧力容器の設計に関わった経歴のある田中三彦さんは、後にその製造過程で起きた問題を明らかにし、原発の危険性を訴え続けてきた。

updata:2011.12.19

今までの世界を諦める勇気が必要

福島原発の1号機は地震で壊れていた

田中三彦×小林武史 震災被害から何を学ぶのか(4)
田中 あと僕が最後に聞かれてもいない重要な話をしておきますと(笑)、今、後藤政志さん、渡辺敦雄さんという元東芝の格納容器の設計者の方々と一緒に、どういう事故が起きたかという解析をしているんです。概念としては市民調査だね。国の調査には任せられないし、言葉で批判していても埒があかないから、技術理論的な計算などをしているんです。おそらく国の言っている事故ストーリーとは全く違うストーリーになると思います。

小林 一体どのあたりが違うんですか? 簡単にご説明いただける内容じゃないかもしれませんが......。

田中 いえ、簡単ですよ。今回の福島原発の1号機は津波にやられたのではなくて、地震の時点で壊れている、ということです。
おそらく地震の揺れで1号機の圧力容器に出入りする重要な配管が折れてしまい、そこから高圧な蒸気が漏れ出してメルトダウンに入ったと思われるので、その分析をしています。 それから2号機は間違いなく、原子炉格納容器の外側が地震で溶接部が破壊していますね。そこから水素が漏れ出してして爆発していると思うんです。3号機についてはちょっとよくわからないから僕らに分析ができないのだけれど。1号機と2号機については僕らが考えうる原因を分析して計算してシュミレーションしているんです。
僕らが言っていることが正しいかどうかは分からないけれども、少なくとも、こういうストーリーも事故調査委員会は考えなければいけないことなんです。もしこれが違うというのなら、それを証明しろということです。国の事故調には任せられない。

小林 国は津波による被害が大きいと言っている。 でも田中さんたちは地震の段階ですでに大きな事故が起きていたと予想されている......。
田中 なんでその違いにこだわるかというと、津波が非常に大きかったからあれが事故を悪化させたことは間違いないけれども、そういうことに関係なく、地震が起きてから津波が来るまでの50分くらいの間に、原子炉はかなり損壊していたということがとても重要なんです。そのことをどうして国が言わないのかというと、それを言うと日本各地にある全ての原発の安全性に及ぶからなんです。
今僕らが問題にしているのは浜岡原発です。東海地震が起きると言われていますよね。東海地震の予想されている震源地というのは、御前崎の地面の下です。その真上に原発が5つ乗っかっている。そのうちの3号機と4号機は福島の1~3号機とまったく同じ形をしています。 福島のメルトダウンの原因が津波ではなく地震だったとしたら、同じものが浜岡にきたらどうするのですか?という話になるわけです。海岸から60キロ離れているから津波の被害はないだろう、だから福島よりましだろう、という論理は非常に危険だと言いたいんです。 「福島原発は地震で壊れた」と認めたら、残りの原発もすぐに止めなければならないという事情があるために、国は容易には認められないわけですね。だから何もしないうちからIAEAに向かって「地震が問題じゃなかった」と報告しているわけです。
僕はね、正義感というわけではなく単純に、嘘を言っている人達に、嘘を言うのはやめろと言いたいわけです。その嘘が、たいして社会に影響を及ぼさない嘘ならどうでもいいけれど、この先30年の間には必ず起きるであろうと言われる東海地震を前にして浜岡原発に関わる大きな嘘は見逃せない。 30年後に起こる、という意味じゃないですよ。向こう30年間に、ということは、明日起きても不思議じゃないわけです。そういう切迫した問題を見過ごしてあとは運にかけるというような選択をしているこの国に腹が立つわけです。 だから僕らは自分たちで調査して、その結果を世間に向けて発表していきたいと思っています。その際はぜひ小林さんにもご協力をお願いしたい。

小林 分かりました。重要なのはその問題をまな板の上にあげるということですよね。
田中三彦×小林武史 震災被害から何を学ぶのか(4)

自然とコミュニケーションしながらの生活に戻る

田中三彦×小林武史 震災被害から何を学ぶのか(4)
小林 最後に、じゃあ原子力はやめようか、となった時、これからのエネルギー問題について、田中さんはどうお考えですか?

田中 原発はもうこりごりだと。できれば自然エネルギーとか再生エネルギーを模索したい。それは方向として間違えでないし、そうあってほしいと思う。でも、今まで僕らはエネルギーに対して「もっともっと」の世界にいた。そのクセを直さないとね。クセというのは、エネルギーの消費などというライフスタイルの問題をね、僕らはもっと徹底的に考える必要があるのではないかと。小林さん、パッシブソーラーハウスってご存知ですか?

小林 ソーラーハウスにはアクティブソーラーハウスと、パッシブソーラーハウスがありますね。
田中 アクティブソーラーハウスというのは太陽のエネルギーを使いながら住む家。パッシブソーラーハウスというのも太陽のエネルギーを使いながら住む家だけど、基本的に、全く考え方の違うものなんです。アクティブソーラーハウスは技術の世界で、パッシブソーラーハウスというのはどちらかというと思想の世界なんですね。 例えば西日。日本人はみな西日を嫌うんだよね。暑いといって。だから西の部屋には必ずブラインドがあって西日がくると遮断する。遮断すると暑さもしのげて涼しく住めるということですよね。そのときにね、遮断したものはなんだったかということが問題なんですよ。「暑さ」を遮断するということは、非常に美しい、太陽のエネルギーとも言える西日というものを遮断しているんだということなんです。断熱や遮光をして、室内の温度や湿度をコントロールしようというのは、外界で起きていることと切り離して、自分がいる空間を中心に考えた効率なんですね。アクティブソーラーは主にそこをやっているわけです。でもみんながそれをやれば、外界のバランスは崩れてきてしまうと思いませんか? 一方、パッシブソーラーというのは、断熱とか遮光ということではなくて、簡単に言えば、外界の情報を全部取り込んでいこうという考え方なんです。
建築家はその家の後ろに木があるのか、土手があるのか、近くにどんな家が建っているかなどを全部考えながら、その環境の中でどんな家を建てれば快適に過ごせるかということを考えていくんですね。外界で起きている自然現象を遮るのではなくとりこむことで快適な空間づくりをするわけです。 実はパッシブソーラーの考え方にすごく合うのは、障子や縁側です。日本に昔からあるものですよね。雨戸なんかもそうです。台風がくるときや留守をするときには閉めるけど普段は閉めないんですね。普段は、障子や縁側という非常に脆弱なもので外とやんわり仕切っている。風が欲しいと思ったら扉を全開すれば風が通るし、少し厳しいなと思ったら閉めればいいという仕組みになっている。それでも寒ければこたつに入ればいい。日本人は実はずっと実はずっと自然とコミュニケーションしながら住んできたわけです。そういう文化というものを、僕らは全部捨ててきてしまったんですね。
アクティブというのは、行動するという意味でしょう? パッシブというのは受身という意味ですよね。ところがアクティブな空間に住むと、いわゆる機械がいろいろなことを調整してくれる空間に住むと、人間はやることがなくなってその中ではパッシブなことしかしなくなってしまうんです。
それに対して、パッシブな空間に住むとなると、扉を開けたりふすまをあけたりと、いろいろと外の空間に合わせてコミュニケーションをとらなければならなくて、非常にアクティブな生活になるんだね。

小林 面白い。その通りですね。

田中 これから我々が太陽エネルギーなどの自然エネルギーを使うときには、この、パッシブソーラーと同じく、自然とコミュニケーションしながらの生活に戻るというくらいの感覚で向かっていかなければならないと思うんです。 エネルギーだけを効率よく欲しいということなら、はっきり言って原発を使のが一番効率はいいと思うんです。今までの効率主義や、エネルギー消費主義の世界を続けるのであれば、原発依存を続けるのが非常に手っ取り早い。その世界を諦めるので相当な覚悟が必要だとも思います。根本的なライフスタイルを変えないと、「やっぱり無理だね」とまた原子力に戻ってしまうんじゃないかと思っていて。それがこわいと思っているんですね。
小林 ライフスタイルを哲学的、思想的な裏付けをもって変えていくというのは、なかなか難しいことなんだろうなとは思うんですよね。エネルギーの問題は、個人、一人ひとりが考え実践していかなければならないからこそ尚更。でも、やらなければいけないし、今がそこへシフトする時だとおも思うんです。本当に難しいことだとは思うのですが。

田中 だけどね、震災後、感じたことは暗いことばかりでもなくてね。小林さんやap bankがこういう活動をしたり、多くの人々がボランティアに駆けつけたりしたでしょう? その精神が僕はすごく重要だと思うんですね。それすらしない国民ではなかったということでね。困っていることに助けあうことができる国民だったということがすごく重要だと思うんです。

小林 本当にそうですね。
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田中 はい。それを日本はやったということで僕はすごいと思っているんだよね。多くの人がそこに共感して一緒に頑張れたということが。後はね、この原発の怖さを実感した我々が、今度は原発に依存していた文化そのものに疑問を抱いて変わっていけないかな、ということを僕は思うわけですよ。

小林 とにかく放射能への恐怖というものをここまで意識したことは今までの日本にはなかったし、これはしばらく消えないと思うんです。先ほど田中さんのお話にもあったように、原発の事故というのは、人間の種の存続そのものに及んでくるような問題だと思いますからね。自分だけのことだけだったらある程度の危険は承知で便利を選ぶという覚悟のしようもあるかもしれないけれども。

田中 それがね、個的な問題と人類全体の問題との違いでね。
小林 世界で唯一の被爆国ということで日本はもっと気付けることがあったかもしれません。でも、戦後は、効率、経済、合理化というところで突き進んできた。戦後はそこが必要だったと思うんですん。でも、70年代以降に日本は豊かさを選んでしまって、危機感というようなことが段々ぼやけて鈍くなってしまっていたのかもしれません。今回の福島原発のことで大分目が覚めたはずなんだけれど、それでもまた、世界の顔色を伺いバランスをとっていこうということばかりをしている。それも大切なことだとは思いますが......。

田中 だけど、日本はもう自信を持って、「私のところは地震大国だから原発を諦めます」と断言をしてしまえばいいのにと思いますね。「そうしてみんなで自然エネルギーの方向に向かうんだ」と発表すれば、日本は新しいモデルとして世界でも注目されるはずです。国か率先して、そういう元気のあるメッセージを出さないということが問題なんだ。
小林 そうですね。少なくともまずエネルギーのことに関して、「新しい産業が生まれるから」という発想などはもう捨てて、ということですよね。新しい経済活動にスイッチしていくんだよということよりも、我々は何を大切にして、その想いのもとに世界に先駆けて僕らとしての生き方というものを求めていくと決めたか、ということだと思うんですよね。

田中 みんなで声を出しあっていけば、そうなれるんじゃないかと思います。専門家ばかりじゃなくね、小林さんのようにかっこよく音楽をやっていて若者にも支持されている人がこういう活動をしてくれていることが僕は非常に心強い。これからもよろしくお願いします。

小林 こちらこそよろしくお願いします。今日はどうも、ありがとうございました。
田中三彦
田中三彦
翻訳家、科学評論家。元原子炉製造技術者。

東京工業大学工学部生産機械工学科卒業後、バブコック日立に入社。同社にて、福島第一原子力発電所4号機などの原子炉圧力容器の設計に技術者として関わる。1977年退社。その後はサイエンスライターとして、翻訳や科学評論の執筆などを行う。「柏崎刈羽原発の閉鎖を訴える科学者・技術者の会」呼びかけ人。
2011年12月8日、国会に設置された「東京電力福島原発事故調査委員会」の委員に任命された。

(撮影・取材・構成/編集部)

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