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田中三彦×小林武史 震災被害から何を学ぶのか(3)

田中三彦×小林武史 震災被害から何を学ぶのか(3)

元原子炉製造技術者として福島第一原子力発電所4号機などの原子炉圧力容器の設計に関わった経歴のある田中三彦さんは、後にその製造過程で起きた問題を明らかにし、原発の危険性を訴え続けてきた。

updata:2011.12.19

「人類の滅亡」を考える

1945年8月6日にパンドラの箱が開いた

小林 今回は、エコレゾ ウェブ始まって以来初の対談2日目を設定させていただくことになりました。2度もご足労いただき本当にありがとうございます。早速ですが、先日のお話の続きを聞かせてください。チェルノブイリ原発事故の後、90年代に入ってから日本でも「原発は本当に大丈夫なのか?」という論議が生まれたと思うのですが、その心配は段々と下火になっていきますよね。

田中 そうですね。

小林 そのとき田中さんは一体どんな想いで、反原発の活動をされていたのかなと。

田中 前回もお話をしましたが、僕が会社を辞めた理由は、学問をやりたかったからなんですね。簡単にいうと当時は工学系の学者になりたかった。

小林 なるほど。どういったジャンルの学問をしていらっしゃったんですか?
田中三彦×小林武史 震災被害から何を学ぶのか(3)
田中 結局、いろんな事情でそういう道にはいけませんでしたが、昔から脳に興味があったので、その後はとくに脳の勉強をしたり翻訳をしたりしてきましたが、ものを書いたり翻訳したりする仕事をする中で、様々な人に出会い、考える世界がずいぶん広がってきたんです。一番大きかったのは吉福伸逸さんとの出会いですね。彼は、元はアメリカで活躍していた有名なジャズ・ミュージシャンですが、70年代の終わりにに、アメリカから『タオ自然学』という本を携えて日本に戻ってきました。
オーストリア生まれのF・カプラという現代物理学者が書いた本で、高エネルギー物理学といって、宇宙の解明なんかをする最先端の学問と仏教やヒンドゥー教のような東洋の神秘主義とのパラレル、相似性みたいなものについて書いた一冊なんです。当時、アメリカでは大ベストセラーになった本なのですが、ある人を介して、その翻訳を一緒にすることになったんです。吉福さんとの出会いから、今まで私が住んでいた世界とは全然違うことを勉強するようになって、またいろんな分野の科学者達ともたくさん会うようになりました。
それまでとは違って、科学的なこと、文化的なことをいろいろ吸収できたんですね。

小林 なるほど。技術者として原発政策に関わり、その後、科学や文化、思想の世界でご活躍されている田中さんが、3.11以降の今、どういうことを感じて、我々のとるべき道というものについてどういうことを伝えていきたいと思っていらっしゃるのかということをお聞きしたいのですが。
田中三彦×小林武史 震災被害から何を学ぶのか(3)
田中 原発の問題に関していうと、今回の原発震災の被害から何かを学ばなければならないと思うんです。その学び方が、国と東京電力は全くだめだと僕は言いたいんです。 核という問題には特別な意味があってね。僕が非常に影響を受けた思想家にアーサー・ケストラーという科学思想家がいて、僕は彼の本を一冊翻訳したのですが(『ホロン革命』工作舎)、その本の最初に、「人類史上、最も重要な日はいつかと問われたら、躊躇なく、1945年8月6日と答える」という一文があります。その日まで、人間は個としての死、要するに自分や知り合いの死というものだけを考えていればよかったが、広島の上空で太陽を凌ぐ閃光が放たれて以来、われわれは人類そのものの種の滅亡を意識して生きなければいけなくなった、と彼は書いている。それはわれわれの「新しい意識の夜明け」なんだと。今の80代、90代の人に聞くと、人類が破滅するという概念は原爆が落ちるまで全くなかったね、と言います。
人類が滅亡するなんてことはSFの世界だったと。だけど原爆を経験した瞬間から、これはいずれ人類が破滅するんじゃないかと思うようになったと。 そういう意味で1945年8月6日は非常に重要な日だとケストラーは言った。キリスト教の暦でB.C.やA.D.などがありますが、それよりももっと重要な暦として1945年を「Post HIROSHIMA」=P.H.元年としようと書いています。つまり、その日パンドラの箱があいて、人間は苦を背負って新しい夜明けを迎えたんだということですね。

小林 その言葉、その感覚は非常によく分かります。

田中 原子力というのは平和利用であろうと戦争利用であろうと、人類滅亡という影を背負っていると思うんですね。
人が死ぬ数だけが重要なのではなくて、社会的、経済的なインパクトが長く続くという意味でも原発事故や原爆というのは非常に大きいものです。日本は、原爆を経験した、それも2度も経験した唯一の国なんです。 アメリカは9.11で瞬間的に3000人の人が亡くなったということをよく強調します。瞬間的に、を強調するのはなぜかというと、イラン・アフガニスタンという戦争ではもっともっと大勢の人が亡くなっているわけでしょう?きっと、その弁解もある。瞬間的に殺すなんていうのはとんでもないことだ、だからアメリカは攻撃を続けるよ、ということですね。でも、瞬間的ということでいうなら、広島・長崎では瞬間的に合わせて20何万人近くの方が亡くなられた。そういうむごたらしいことが起こったにも関わらず、日本というのは、なんというか寛容でありすぎると思うんですね。
いまでは多くの人が、原爆のことはすっかり別のところに置いて、原子力を受け入れてしまっているんですね。

小林 確かにそうですね。震災後、原子力に対して一気に上がった懸念みたいなものも、既にもう薄れてきているような感じもありますよね。

田中 そうです。今回の事故で改めて気づいて、勉強をしなければいけないと思い始めていたことを、みんなすっかり忘れて元に戻ろうとし始めている感じがします。原発の事故は10万年に1回だから、などという専門家もいるけれども、僕が生きている間にも、スリーマイル島、チェルノブイリ、福島と、3回の大事故が起きた。
90年代なんかはね、原発推進者と話をするときに、運転ミスが起こるかも、津波が起こるかも、地震が起こるかもと言っても、「お前らの言うことは悲観的過ぎる」と薄笑いを浮かべられていました。 今はさすがにそれはなくなりましたね。少しお灸を据えられた感じにはなったでしょう。でも、もっと徹底的に変わっていかないと。ドイツなど他国は決断が早いですよね。その決断がどうして日本はできないのかと思います。

小林 僕が感じるのは、日本は、政治と思想というものが、乖離(かいり)しているということ。本当は政治という、この国をどういう風にしていくかというところには、思想や哲学というものが入り込んできてもちっともおかしくないと思うのですが、そういうものがほとんど感じられない。まあ、戦時下や戦後の貧しい状況ではそんなことを掲げなくても、目指す所や感じることが自然と共有できていたのかもしれませんが。それ以降の、経済が安定してからの日本というのはバランスをとっているだけという気がするんです。
田中三彦×小林武史 震災被害から何を学ぶのか(3)
田中 たしかに今の日本の政治家はこれといった思想を持っていない感じがします。それは教育の問題もあると思いますが。"バランス"とおっしゃったけれども、本当に日本はそれを心がけ過ぎていてね。しかも偏らずにバランスがとれているかというとそうでもなくてね。僕は日本のメディアにも非常に失望しているんです。大手の新聞やテレビ局が、本当に正しいことを言っているか、あるいは信念を持っているかと言ったら、どうもそうではないですね。NHKもダメ。 震災後、海外のメディアからはたくさん取材が僕にきました。でもNHKは一度も接触してこない。知り合いの記者から、反原発の人のコメントはとりませんと、はっきり言われました。反原発の人間は出さないようにしている。
今回の原発事故がどんな事故だったか、まだ検証が十分なされていないうちに、国は、IAEAに都合のいい事故報告書を出した。NHKはそれをアニメーション化して、あたかもそれが真実であるかのごとくテレビで解説する。僕らから見るとその論理はおかしいよと思う部分がたくさんあるのですが。NHKは国の主張を金をかけて詳細に報道し、国と違う見解を持つ人間の声は聞こうとしない。 そういう意味で、NHKは大本営の発表機関のようになってしまっている。大手の新聞社もほぼそれに近い状況ですね。今回本当によくやってくれたなと思うのは東京新聞(中日新聞)です。あそこは双方の意見をきちんと調べて報道していて、東京新聞というのはこういう新聞だったのかと、今回のことで感心しました。
小林 メディアの問題というのは本当にいろいろと耳にします。でもそういう"メディアのだめなところ"は、当然メディアが報道することがないわけですから、明るみになりにくい状況なんでしょうね。

田中 今の世論というのは、バランスがとれているようで実は、批判をするという人がいなくなっているのが実情。ジャーナリズムが死んでいるというのかな。政治家も思想がない、新聞社も思想がない、そういう中で持ちつ持たれつの関係があるようで、非常に残念で仕方がないですね。
田中三彦
田中三彦
翻訳家、科学評論家。元原子炉製造技術者。

東京工業大学工学部生産機械工学科卒業後、バブコック日立に入社。同社にて、福島第一原子力発電所4号機などの原子炉圧力容器の設計に技術者として関わる。1977年退社。その後はサイエンスライターとして、翻訳や科学評論の執筆などを行う。「柏崎刈羽原発の閉鎖を訴える科学者・技術者の会」呼びかけ人。
2011年12月8日、国会に設置された「東京電力福島原発事故調査委員会」の委員に任命された。

(撮影・取材・構成/編集部)

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