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宮台真司×小林武史「世界の手触りを失うな」(3)

宮台真司×小林武史「世界の手触りを失うな」(3)

対談当日、折しも世間は菅首相の退陣表明と内閣不信任案で騒然としていた日。そんななかお出でいただいた社会学者の宮台真司さんは、のっけから熱く、静かに、語りはじめた。「政局」から「人の尊厳」にまでおよぶテーマの、濃密な2時間半のダイアローグだ。(対談日:2011年6月2日)

updata:2011.07.14

これからの日本の可能性は?

ニュータウン現象 援助交際 「世界の手触り」

小林 宮台さんなんかもずっと言ってきてたけど、かつてのニュータウン現象や、さっきの仮面ライダー的なことも含めてね、多様な人間の感情をどんどん排除されていく、このつまらない感じを黙って受け入れていく社会っていう問題がありますよね......。まあ、ほんとにつまらないような時期からは少し変わってきているような気もするんですが。宮台さんはいま世田谷にお住まいで、お子さんを通して地域とのつながりも積極的に持つようにしていると伺ってます。昔、宮台さんが渋谷の最前線でやってた感じと、いまのそういった地域との関わりって、ご自身の中ではどういうバランスなんですか? かなり個人的な話かもしれないけど(笑)。

宮台 素晴らしい質問です。僕が最近投げかけられる、「終わりなき日常は終わったのか?」という質問にも関係します。後者の質問については、「終わりなき日常は終わっていない」が、僕の答えです。小林さんの質問については、「終わりなき日常を生きるには絆しかない」というのが僕の答えです。
なぜ、そういう答えになるのか、お話しします。
「終わりなき日常」には2側面あります。第一はポストモダン社会に普遍的な側面で、第二は日本社会に独特な側面です。第一から説明すると、ポストモダンとはアイロニカルな脱臼が蔓延する社会です。単にアイロニーが蔓延すると言っても良い。一口で言えば「全体を部分に関係づける営み」。典型的には発話者の〈自己〉に関係づける営みです。高邁な宗教的世界観や政治的理念であっても、「どうせこういうヤツが言ってるだけ」と、所属や人格を持ちだして脱臼させる。2ちゃんねる的です。戦後社会は「〈秩序〉の時代」から「〈未来〉の時代」を経て「〈自己〉の時代」にシフトしましたが、かつては〈秩序〉や〈未来〉に関係づけられた表現が、今や〈自己〉に関係づけられるのです。これは日本だけじゃありません。例えばアメリカでは、昨年(2010年)の中間選挙におけるティー・パーティーの躍進について、「理念ゆえの政治的要求というよりも、貧困者に限らない若年者の鬱屈がそうした形をとっただけ」という理解が広く見られました。
宮台真司×小林武史「世界の手触りを失うな」(3)
宮台 つまり、「どうせ気が晴れないからそういう考えを抱くだけだろ?」というわけです。リオタールの「ポストモダンの社会では大きな物語が失墜して小さな物語だけになる」という命題も、単なる物語の大きさの話じゃない。どんなに大きな物語があっても、世界大の問題というより〈自己〉に関係づけられてしまうことを言います。つまり人格や気分や自己防衛の営みに帰属されるんです。これが70年代半ばから先進国に拡がりました。こうした「アイロニーの蔓延」、正確には「アイロニー(全体の部分への関係づけによる脱臼)に向けた圧力の蔓延」という意味での、「終わりなき日常」は、今後永久に続くでしょう。
カトリーナが襲来しようが、大津波が襲来しようが、そんなことでは「アイロニーへの強迫」という意味でのポストモダン社会が終わることは、絶対にあり得ません。
第二の、日本社会に独特な側面についてお話しします。日本社会は、小林秀雄の言葉を使えば「様々なる意匠」が蔓延する社会です。例えば、昨日まで皇国教育を強いていた教員が、「皆さん、今日から日本は民主主義の国になりました、さあ、教科書を開いてスミ塗りをしましょう」と呼びかけました。これで民主主義が誕生するのでしょうか。 今回の震災の後、人々の気分が変わり、倫理や絆が喧伝されるはずです。
現にそうなっています。けれど、それらは所詮「今まではチャラチャラした流行を追いかけてきたが、これからは重厚な倫理の時代だ」つまり「これからは『おチャラけた戯れ』モードから『重厚な価値』モードに変わるぞ」と、モード(ムード)の変化を告知しているだけ。(1)全てが〈秩序〉や〈未来〉でなく最終的に〈自己〉に関係づけられてしまうという意味での「終わりなき日常=〈自己〉の時代」が永久に終わらないように、(2)に価値や規範や理念を含めた全てがモードないしムードとして消費されてしまうという意味での「終わりなき日常=モードの帝国」も永久に終わらない。敗戦でも全く終わらなかったでしょう。
宮台真司×小林武史「世界の手触りを失うな」(3)
宮台 1995年、オウム真理教が起こした地下鉄サリン事件を受けて出版した『終わりなき日常を生きろ』という本では、「終わりなき日常(1)=〈自己〉の時代=ポストモダン」というニュアンスと、「終わりなき日常(2)=モードの帝国=様々なる意匠」というニュアンスを両方意識しました。その上で、「サリンを撒かずにどう耐えるか」を提案したんですね。僕の提案は「意味から強度(濃密さ)へ」のスローガンに集約されます。これは、1994年まで渋谷近辺で流行していた、援助交際で有名な「女子高生デートクラブ」や、終夜レゲエやテクノに身を任せる「クラブ」を、〈解放区〉だと見做したことに関係します。取材で目撃した「意味を求めず脱力してまったり生きる作法」を、僕は推奨したんですね。だから「意味から強度へ」のスローガンを、「終わりなき日常をまったり生きろ」とも言い換えたし、こうした〈解放区〉の拡大を「まったり革命」とも呼んでもいました。でも、この物言いを僕は1996年いっぱいでやめます。理由は、1996年の一年間で〈解放区〉が一挙に消えたからです。
宮台 「まったり生きろ」から全くリアルさが失われたんです。先に述べたように、「終わりなき日常」はどんな意味でも終わっていない。けれど、「意味から強度へ」とか「まったり生きろ」といった処方箋が無効になってしまった。だから、こうした処方箋と結びついた「終わりなき日常」という言い方もやめてしまった。「終わりなき日常」を、「まったり革命」で克服するのは無理だと理解したんですね。こうした僕の「挫折」とシンクロするかのように、僕を慕ってくれてデートクラブにも出入りしていた女子東大生が、大蔵省内定後に自殺してしまった。僕の本を熱心に読んでくれていた男子中央大生が、膨大なノートを残して自殺してしまった。鬱に落ちて苦しんだ末に、僕は「意味から強度へ」から「〈社会〉から〈世界〉へ」へと展開しました。展開のヒントになったのは酒鬼薔薇事件の取材でした。〈社会〉をあくまで仮の姿で生きて、自分の本体を、バモイドオキ神という個人神を信じることで開ける〈世界〉に置くやり方が、印象的でした。「〈社会〉から〈世界〉へ」は宗教学の言葉を使えば「内在から超越へ」となります。ことほどさように、これ自体少しも新規な方法じゃありません。
「〈社会〉から〈世界〉へ」という運動を、僕は当時「脱社会化」と呼び、脱社会化を達成した存在を「脱社会的存在」と呼びました。ご存知かもしれないけど、酒鬼薔薇事件を扱った僕の『透明な存在の不透明な悪意』では「脱社会的存在」を否定的に扱い、2年後の『サイファ--覚醒せよ』では「脱社会的存在」を肯定的に扱っています。なぜなのか。「脱社会化」が社会への敵対に通じるような「凶悪な脱社会性」を排除し、「脱社会化」が社会の再帰的肯定に通じるような「柔和な脱社会性」を擁護しようとしたからです。このことを丁寧に説明するために、『ダ・ヴィンチ』誌上で7年間、映画批評の連載をしました。そして「凶悪な脱社会から、柔和な脱社会へ」という言葉を反復しました。「脱社会化」した後、社会に敵対するのでなく、社会を再帰的に肯定する「柔和な脱社会」に至ることは、如何にして可能なのか。仏教における「往相と還相」を意識しながら、多くの映画が様々な切口からこの主題に取り組んでいる事実を紹介しつつ、理論的にというよりも感覚的に、読者にこのことを理解していただきたいと思ったわけですね。
「理論的にいうよりも」と言いました。連載終了の2007年頃から「じゃあ、理論的にはどういうことになるのか」に集中するようになりました。その結果、20世紀ドイツにおける哲学的人間学からニクラス・ルーマンへの流れと、20世紀アメリカにおけるリバタリアニズムからコミュニタリアニズムへの流れの、抽象的同型性に気づくようになりました。それを一口で言えば、「『どこまでも恣意的だけれど、しかし自ら選ぶことができないような何事か』を、擁護する」という構え。あえて一口で言うとそうなりますが、実際には膨大な議論の積み重ねがあります。この議論の積み重ねが、先に申し上げた「社会を再帰的に肯定する」とはどういうことかをすみずみまで明らかにしてくれています。そうした経緯で、僕の「絆の擁護」が出てきます。これは僕の考える限りでのコミュニタリアンによる「共同性の擁護」と同じです。「不可能性を意識しつつコミットする」構えだから、僕はしばしば(絆の擁護や共同性の擁護の)「不可能性と不可避性」という具合に表現します。「寂しいから、助け合いが必要だから」共同性が大切なのではない。
宮台 こうした「不可能性と不可避性」を意識した再帰的な「絆へのコミット」や「共同性へのコミット」はロマン主義的強度(濃密)を与えます。そもそも「不可能性と不可避性」という問題設定は初期ロマン派のもの。そうした次第で、「終わりなき日常」を「まったり生きろ」ではなく「絆を求めて生きろ」という処方箋が有効だと思うようになります。ただし繰り返すと、「不可能性を知りつつ(絆を求めよ)」ということになります。このような限定条件を付けることで、「快適」や「便利」を求めて「不幸になる」とか、「幸せ」を求めて「尊厳(入替不能性)を失う」とかいったような「意図せざる結果」を、ある程度は抑止できます。なぜなら、さまざまな逆説に敏感になれるからです。ではどんな逆説があるのでしょう。先ほど、〈解放区〉がなくなったことで、「まったり革命」があり得なくなったと言いましたが、これは逆説の帰結です。そもそも〈解放区〉の消滅は、盛り場ないしホットスポットの消滅の一環です。具体的には、浅草⇒銀座⇒新宿⇒原宿⇒渋谷、と変遷してきた盛り場は、1996年を以て完全に消滅しました。
宮台真司×小林武史「世界の手触りを失うな」(3)
今の渋谷は、マツキヨがあってコクミンドラッグがあってダイソーがあってビックカメラがあって......と、町田や西船橋と何の違いもありません。スーパーフラット化が完成しました。こうした動きのシンボルは、1996年の、ナンパ系とオタク系の落差の消滅(どっちがカッコ良いとか言えなくなった)と、ジモティー化&お部屋族化の急速な展開です。それに先立って、警察と地元商店会が手を組んで、補導強化と浄化運動を展開し、女子高生を含む若年層がセンター街などにタムロする動きを一掃したことが、重要です。その結果、こうした若年層が集まることを前提にしたお店やクラブが廃れ、そうしたお店やクラブを目当てにする若年層が集まらなくなり......といった悪循環が回るようになりました。 抽象的に言えば、都市からスキマや余剰を消去する動きが、1996年に完成したんですね。こうした、スキマや余剰を消去する動き、共同体自治の中で是々非々で対処する代わりに、何かというと警察を含めた行政権力の呼出線を使うという、
学問的な言い方をすると「法化社会」の展開が、全国化したわけですよ。法化社会の出発点は、1983年頃です。1977年に鈴鹿市で、子供を隣人に預けている間に建築現場の池で溺死したことで隣人と自治体と建築業者を訴えた「隣人訴訟」がありました。1983年の判決では一部を除いて原告敗訴でしたが、それよりも、判決が報じられると同時に原告夫婦に非難の手紙や電話が殺到し、上告取下げに追い込まれたことが重要です。当時はまだそういう時代でした。ところが、これ以降、判決とは裏腹に、何かというと管理者責任や設置者責任を問う訴訟が相次ぐようになります。これに恐れをなした行政は、屋上や放課後の校庭をロックアウトし、小川などは暗渠化したり柵を設けたりし、公園からは箱ブランコなどの遊具を撤去する動きが進み、90年代に入ると監視カメラまでが入ってくる。法化が進むわけです。こうして空間から、危険な場所の除去という名目で、スキマや余剰が消去されます。これは妥当な動きでしょうか。
そうは思えません。小さい頃に用水路で一緒にザリガニ捕りをしていた弟がマムシに噛まれたことがありました。僕の父が設置者を訴えたか。いいえ。「だから危ないって言っていただろう!」と弟を叱責した。それが当たり前でした。 おととしの暮れにCOP15があってコペンハーゲンに行きました。昼間でも零下10度以下で、道がアイスバーン化している。自動車レーンの脇には自転車レーンがあって、その向こう側に歩道があるんですが、どこにもガードレールがない。「危なくないのか」と尋ねると、「だから気をつけるようにしている」と言うわけです。ザッツ・オールです。

小林 素晴らしいですね(笑)。
宮台 コペンハーゲンの人々は美観を問題にしていました。でも美観に限らず、空間からあらゆるスキマや余剰を消去してフラット化することで、子供たちは幸せになるのか。何もかもを行政に「依存」することで、僕たちは幸せになるのか。違うでしょう。自分たちで自分たちをハンドリングする「自立」なくして、強度はなく、幸せもあり得ません。 ノイズやリスクを消去した環境こそが子供には良い、といった思い込みの延長線上に、東京都の条例改正にみられるような有害メディア規制があります。子供をノイズレスな環境におきさえすればスクスク良い子に育つ、といった馬鹿みたいな発想に多くの人がはまっているのが現状です。どうしてこうした考え方が蔓延してしまったのでしょうか。 ツイッターで同世代の男女とやりとりをして、僕が昔から持っていた仮説が傍証されました。例えば、僕ら世代までは、打上花火を水平打ちして戦争ごっこをした経験をほとんどの男が持っています。スキマや余剰を消去すればOKなんて本気で考えた向きは少数でしょう。なのに、僕ら世代が親になった1980年代後半に法化社会が進んだのか?
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リサーチして分かったのは、「子供の目が潰れてもいいのか!」「子供が死んでもいいのか!」みたいな"間違った正論"を立てる少数のモンスターが出てくると、反論が難しく感じられて、黙ってしまう事実でした。それでも僕ら世代より上は違和感を感じていましたが、80年代後半以降に生まれた世代にとって、ノイズレスが当たり前になりました。 人事担当者の多くが「1986年分水嶺説」を採ります。86年生まれ以降は構えや雰囲気が以前と違うという意味です。理由の一つは、スーパーフラットな法化社会に生まれ育った世代だから。もう一つは、激動の95年--阪神大震災やオウム真理教事件や援交フィーバー--をリアルに記憶せず、96年以降のスーパーフラットな街が自明だからということでしょう。余剰やスキマのない環境、ノイズやリスクのない環境で育つというのは、ノイズレスな〈システム〉への「依存」が当たり前になることです。でも、今回の震災でこうした「依存」の危険が明らかになりました。宮古市の田老地区はギネス級の10メートルを超える堤防を二重に作っていたんですが、堤防に「依存」したので、ほぼ全滅してしまいました。
防災研究者の片田敏孝先生は、5メートル以下の堤防しかない釜石市の小中学校で防災アドバイスをしておられましたが、古くから三陸に伝わる「津波てんでんこ(てんでばらばらに逃げろ)の教訓を活かして、(1)行政の想定を一切当てにするな、(2)その場で可能な最善を尽くせ、(3)率先避難者たれ、と説き、ほぼ全員を津波から救うことができました。

小林 よかったですね、それは。

宮台 まとめると、「便利」と「快適」があれば大丈夫というのは短見で、実はそんなことでは人は「幸せ」も「尊厳」も得られません。似た話で、「絶対安全」な堤防や原発を作れば大丈夫というのは短見で、実はそんなことでは人は自分も社会も守ることはできません。むしろ社会は、そこそこ不便、そこそこ不快、そこそこ危険なのが良いのです。人は、高い堤防さえ作れば大丈夫とか、丈夫なガードレールを作れば大丈夫とか、原発の安全装置にお金をかければ大丈夫とか思いがちです。間違ってるんです。
社会が「そこそこ危険」であれば、僕らは自明性に「依存」せず、危険に対処する知恵を獲得し、「自立」できる。さもないと、僕らは「依存」した結果、「世界の手触り」を失うんですよ。

小林 そうですね、いい言葉ですね。「世界の手触りを失うな」ですよね。探っていくのが面白いんですよ。自分で世界を確かめていくのが。

宮台 〈システム〉が与えるカネや権力に「依存」して偉そうにするのは、浅ましい。逆に〈システム〉が動かなくなって、〈システム〉が与えるリソースを頼れなくなったときに、人は試されます。「〈システム〉さえあれば」でなく「〈システム〉が消失すれば」の想像力が大切です。それを養うのは一つには教育だし、もう一つは表現者の影響です。
宮台真司
宮台真司
社会学者。映画批評家。首都大学東京教授。

1959年3月3日仙台市生まれ。京都市で育つ。東京大学大学院博士課程修了。社会学博士。権力論、国家論、宗教論、性愛論、犯罪論、教育論、外交論、文化論などの分野で単著20冊、共著を含めると100冊の著書がある。キーワードは、全体性、ソーシャルデザイン、アーキテクチャ、根源的未規定性、など。

(撮影・取材・文/編集部)

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