エコレゾウェブ

top » 緊急会議 飯田哲也×小林武史 (2) 「なぜ原子力を選んだのか?」

緊急会議 飯田哲也×小林武史 (2) 「なぜ原子力を選んだのか?」

緊急会議 飯田哲也×小林武史 (2) 「なぜ原子力を選んだのか?」

そもそも、どうして原子力を選んだのか? 日本はどんな仕組みで原子力発電を迎え入れたのか? 原発が推進され、自然エネルギーが推進されなかった、その"内側と外側"の事情を飯田さんに語ってもらった。(対談日:2011年3月29日)

updata:2011.04.08

エネルギーを民主主義で決めていく北欧。そうでない日本。

原子力発電のコストってどうなってるの?

小林 経産省などがどこまでどういうことを言っているのかは不勉強で分からないのですが......。この間、夜通し討論する某テレビ番組で原発の問題をやっていて眠い目を擦って観ていたんですが、そこに集まっていたパネリストの人たちに、僕はもう少し期待を持って観ていた。

飯田 そうですよね、あれはかなり期待はずれでしたね(笑)。

小林 大体いつも、反対側の意見を持っている人たちも並べるんですけれど、なんだかんだ言って擁護している人たちがほとんどでしたよね。

飯田 基本的に、知識不足でしたね。全体的な議論の水準があまりにも低すぎた。
小林 そうですよね、僕ですらそう感じました。その中でいくつか気になるポイントもあったんです。ひとつはコストのことですよね。まずコストのことがグラフになったパネルが出てきて、それをある人が「設置も含まれたコストなんですか?」と聞いたら、「そんなことはどうでもいい」と司会者が進めていきましたが。あの段階で、原発はコストが安いという面が見逃せないという話をみんなが言っているんですが、その辺はどうなんでしょうか?

飯田 原子力のコストは、まさに致命的な部分です。これには、2つポイントがあります。まず原子力はコスト以前にリスクが問題なのです。これは安全性のリスクよりもむしろ、金融投資リスクなんです。実は世界的には、特に金融機関が原子力には怖くて投資や融資ができないというトレンドがはっきりあります。
今回の福島原発の事故があって、アメリカで原子力の計画をしていたNRGエナジーも、先週、原発増設計画をキャンセルしました。また日本でも、東芝と東電が国際協力銀行と組んで融資をしようとしていたサウステキサスという原子力発電所は、いわゆる2基の原発を当初52億ドル、1ドル100円とすると約5200億円で5年前に計画したところ、今の見通しは180億ドル・約1兆8000万円にまで高騰して、アメリカの投資家がみんな逃げてしまったんです。フィンランドのオルキルオト原子力発電所でも、当初32憶ユーロ、約4000億円で原発を1基作り始めたところ、どんどん追加費用がかさんで、今や1兆5000億円くらいになっているんです。しかも、遅延に次ぐ遅延で、いつ完成するか分からない。そういった巨額投資で長期間回収しなくてはいけないものは、ものすごくリスクがあるじゃないですか。
飯田 ところが風力発電は、その場に持ってくれば早くて半日、長くても3日で発電し始めるんです。それは大げさとしても、実際には計画の段階から数えても2年ぐらいで完成するんですね。そうすると、融資を決めて2年後には投資回収ができて、1基数億円で作れるので比較的小規模で分散投資できる。そういうマネーのロジックで、完全に自然エネルギーの方が勝っているんですね。

小林 確かに、投資しやすいですよね。

飯田 そして日本では「安い」と信じられている原子力は、ここ数年、新設コストが急激に高くなっています。反対に太陽光発電はコストが毎年10%ずつ下がっているので、去年には原発のコストは太陽光を逆転したというデータがあるくらいです。日本の原子力発電所は実はコストが高いです。多分、そのテレビ番組でも言われた国の出したコストは、机上の空論で出した数字で現実の検証のないデータです。「根拠を出せ」と言っても、黒塗りで出してくるんですね。日本では、そういういい加減なデータが平気で通用しているのが困ったものです。コストの話を整理すると、発電コスト以前に投資リスクを考えなくてはいけない。
緊急会議 飯田哲也×小林武史 (2) 「なぜ原子力を選んだのか?」
小林 そこは分かります。

飯田 日本の場合はそこが電力の独占で守られているんです。そして、もうひとつの重要な問題は不公平な建設仮勘定という仕組み。これは、原発を作り始めたら電気料金からコストを回収できるという、常識では有り得ない制度です。

小林 それは、有り得ないんですか?

飯田 普通の社会で考えていくと、商品を届ける前に工場を作り始めたから先に利用料金をもらえないか、という話ですから。

小林 そういう話ですか。作り始めるコストを電気料金に乗っけるという。

飯田 昔は確かにアメリカでも同じような制度があったんですが、自由化された市場では有り得ない話です。つまり作曲を始めたから、まだ曲はできていないけれどiTunesで料金だけ取りますよ、みたいなことが通用しているわけですよね。こういった独占市場と日本独自の政策で、いくら投資リスクが大きくても取りあえずは守られているんです。今回の福島の事故で、これからどうなるかは分かりませんけれどね。
小林 つまり、僕がレコーディングスタジオを新しく作るから、そのコストをMr.ChildrenのCDに乗っけるみたいなものだ。この前のCDにこっそりとか(笑)。

飯田 そうそうそう(笑)。

小林 そんなの自分でやってください、だよね。

飯田 自分の投資リスクは自分で取れ、ということですよね。世の中はみんなそうしているわけですから。また今回の事故ではっきりしているのは、原子力損害賠償制度で支払われる、原子力1基あたりわずか1200億円しかない保険金では、カバーできないほどの巨額の損害が出るだろうということです。しかも、その保険金すら、地震という天災だから支払われない可能性が高い。本来なら、どんな損害が発生しても、電力会社はそれを払えるだけの保険に入るべきだ、という議論が前々からあります。試算の一つとして、もしフランスの原子力発電所がすべての事故の際に青天井に保険金を支払われる保険に入ったとしたら、支払うべき保険料で電気料金が3倍になるという試算がされているんですね。そこまで考えると、日本の役人が根拠もなく計算した原発のコストがいくら安くても、まったく意味がないという話ですよね。
少なくとも、今の日本の原発は、国民が損害賠償を被ることを人質に取って運転されているということなんです。本来コストのことを言うのであれば、国民の税金に暗黙に頼った原子力ではなくて、「再びこんな事故が起きたとしても、その損害は全額保険でカバーできる保険に入りなさいよ」というのが筋だと思うんですね。

小林 なるほど、言われて分かりましたけれど。そういう「仕方ないもんね」ということを日本人は飲み込むのが早いところはあるかもしれないですよね。「1200億円の保険を越えるんだったら、僕らがみんなで」っていう感覚をつい持ってしまいがちだったり。確かに、これだけの損害を起こす種を、安全だといって蒔いていたのは事実ですよね。東電なり国が容認していたということですから。結局僕らにツケが回った、もう有形無形ですけれどね。

飯田 しかもまだこの先続いていきますからね。

外はハリボテ、内はベニヤの"原子力ムラ"

緊急会議 飯田哲也×小林武史 (2) 「なぜ原子力を選んだのか?」
小林 放射能のことについても、「安全だとほぼ言えるでしょう」ということだけですよね。特にこの震災が起こって、今日までの流れを見ても、全然安定しませんもんね。この感覚も日本人にとって初めてで。

飯田 今回の福島第一原発の問題がなければ、みんなこぞって津波の被害者をどう救い、どう復興するかに集中できるのに、この問題があることが非常に暗い影を落としていますよね。福島第一原発の事故処理で、これまでにやってきたことを一言でいえば、「後手後手、その場しのぎ、ドロ縄」です。例えばホースで水をかけたら「その水はどこにいくんだ?」って思うじゃないですか。海水を入れ始めたときから、「もちろん冷やさなくてはいけないけれど、その水の行方から考えないと海が大変になる」と、官邸には最初の頃から提言していたのですが......。

小林 本当に海はどうなっちゃうんでしょうね。
飯田 はっきり分かっているのは、この状況はそう簡単には改善しないということです。とにかく、ものすごい放射能レベルの高い一次冷却水がジャジャ漏れの状態があって、でも冷やすのを止めるわけにいかない。だから、一次冷却水が外に漏れ出ない閉鎖系をどう形作れるのかをシュミレーションしながら、現実性の高い方法で手を打っていかないといけませんが、世界に例のないことです。

小林 完全に壊れなかったのが「日本の原子炉がこれだけ丈夫だった証明でもあります」ということを、某テレビ番組でも言っていましたけれど。

飯田 ひどい話ですよ(笑)。

小林 本当にメルトダウンが起こるのかという事態は、今のところどうなのか。それが丈夫であっても、結局そこと外部がなんらかの形で繋がっているわけだから、そこから色々な問題が起こってくる可能性はありますものね。

飯田 可能性というよりも、現実として今起こりつつありますからね。プルトニウムも検出されていますし。
小林 これから想定というものを人間がどんなに積み重ねていっても、それを超えることが起こったときに、手当をすることを間違えるなり、ベストの選択ではないことをやってしまうこともあるはずじゃないですか。それは突然やってくるし。それを「完璧な対応をいつかはできるはずだ」というのが、おかしいんですよね。

飯田 絶対おかしいんです。

小林 飛行機でも車でも、エラーは含まれているんですよね。人間は完全な判断ができないものだということも分かっている。それを含めて飲み込んでいる。でも、原子力にはそれを求められないと思っている人もたくさんいると思うんです。それがつまり露呈しているとも言えるわけですよね。

飯田 そうです。ただ、後手後手に回っているというのは、さらにレベルの低い話なんです。私は、原子力ムラを「東映太秦映画村」とたとえています。原子力ムラは、表面はキレイにお化粧して、あたかも日本の原子力技術は世界最先端のハイテク国家のように見せかけているけれど、裏に回るとベニヤ板のハリボテが実態なのです。私は原子力ムラの内側の仕事もしていたので、そう断言できます。
小林 原子力ムラの内側というのは?

飯田 原子力安全委員会のもとで原子力の技術基準づくりの仕事や、電気事業連合会の裏側の仕事も少しですがやっていたんです。

小林 その話も聞きたかったんです。なぜ、飯田さんはそちら側の世界にいて、そこから離れられたのかということを改めて聞きたくて。

飯田 ちゃんとお話したことはないかもしれないですね。僕はもともと、大学と大学院で原子力を学んで、それから神戸製鋼で原子力の技術者にとりあえずなったんですね。そのころは、あまり真剣に自分の人生や仕事に向きあっていなかったんですけれど(笑)。でもそれは今思えばすごくいい経験でした。神戸製鋼は大企業ですが、その中での原子力関係の部署は少人数部隊なので、上流から下流までまんべんなくやらせてもらえました。たとえば研究開発では、原子力に使う新素材をいろいろと開発して、特許も20ぐらい取りました。

小林 へぇ。
飯田 それこそ、福島第一原子力発電所の横に、唯一安全な状態にある使用済み燃料の貯蔵キャスクというものがあります。あれは、私が設計を担当したもので、その安全審査にも関わりました。その貯蔵キャスクに使われている中性子を遮蔽する材料も、私が開発したものなんです。

小林 そうなんですか。

飯田 原子力のキモの部分は、国の安全審査です。今回のような色々な事態が起きても安全であることを計算上でいろいろとシミュレーションします。神戸製鋼から電力中央研究所というところに出向派遣で行きました。そこは電力会社の売上の0.2%が寄附で、およそ二百億円規模の予算で運営されている研究所ですが、ここには2つの側面があります。寄付で運営される財団法人なので、タテマエ上は「中立」という顔で、国の安全審査の委員もやっています。でも実態は、電力会社のお金ですから電力会社に奉仕する研究所という、もう一つの顔があります。理事長などは、みんな多くは電力会社からきていましたから。

小林 はい。
飯田 その前半の側面で、原子力安全委員会のもとで新しい安全技術基準を作るという仕事に携わりました。私はそのころまだ20代の下っ端でしたから、最初はカバン持ちと議事録取りくらいから始めたんですけれど、議事録を取っているうちに、大学の先生や企業の技術者など委員の人たちが、政策や国際基準の背景をまったく勉強していないと感じたんです。それで、国際基準の背景やそれを日本に取り入れた過去の経緯や事情などを全部勉強して、すべての情報を頭に入れているうちに、私がその分野の生き字引みたいになったことがあります。最後は、原子力安全委員会からの答申文書も私が書いたこともありました(笑)。その経験を通して、原子力の官僚がどういうマインドや思考方法で仕事をしているのかというのが分かりました。もちろん真面目なんですけれど、彼らの考え方というのは、本当の安全性というよりも、法律の条文の字面をどう合わせるか、なんですね。霞が関文学を駆使した、いわば「文学的安全性」とも言えます。たとえば、マスコミや反対派に突っ込まれないか?という視点で、字面をチェックするだけ。だから今回の事故でも、本当に津波の高さはこの設定で大丈夫なのか、とか津波が来て電源が失われたらどういう安全性を担保できるのか、ということを彼らは真剣に追求したわけではないのです。
御用学者の人は正直に「そもそもこんなに大きな津波や電源喪失は想定していない」と言っています。 そうやって、20代の後半を過ごしながら要領もよかったので「このまま電中研に残れ」という話もありましたが、そこでようやく自分の人生と仕事に、真面目に向き合わなくちゃいけないと思ったんです。原子力や技術と社会との関係とか、あらゆる本をむさぼるように読み漁ったり、そのころ「反原発の神様」と言われていた高木仁三郎さんに面会を求めて話をしたり。それからすべてのキャリアを絶ち切って、スウェーデンに行ったんです。当時のスウェーデンは、原子力で50%の電力をまかないながら、脱原発の方向で進むことを国民が決めていた。そこに行けば、自分のやれることが見つかるんじゃないかと思ったんです。ちょうど、リオ地球サミットのちょっと前でしたけれど。来年2012年に「リオ+20」という地球サミットが開かれますよね、その原点となるリオサミットの前です。

小林 ああ。何年でしたっけ?

飯田 1992年です。そのちょっと前から90年代にかけてスウェーデンに何度か渡ったんですが、それは私にとって圧倒的な衝撃を受けた体験でした。
飯田 言葉尻さえ合わせておけばいいという日本の原子力ムラの文化とは、まるで違っていたのです。「原発推進・反対」という二項対立の議論は、1980年の国民投票ですっかり卒業していて。原子力はこれ以上増やさないという大きな合意のもとで、あとは現実的な核のゴミをどうしていくかであるとか、安全性を実質的にどう高めるのかという課題を、推進も反対もなく、極めて実質的にやっていたことに、軽いショックを受けました。たとえば被曝軽減に関しても、スウェーデンの場合は「原子力の機器の設計と作業の手順の標準化を徹底的に突き詰めることで、作業員の被ばくを個人でも全体でも減らす」ということを、みんなで知恵を尽くして設計を変えることまでやっていくので、集団被曝線量がものすごく低いんですね。それ以上に、圧倒的に衝撃を受けたのはエネルギーを民主主義で決めていく、さまざまな地域社会の取り組みですね。私は『北欧のエネルギーデモクラシー』(2000年、新評論)という著書でも書いたんですが、地域にエネルギー会社があって、みんなで参加し議論しながらバイオマスで自然エネルギー100%を目指すコミュニティとか。

小林 なるほど。東北の新しい復興のときには、そういう考え方が出てきてほしいですよね。

飯田 そうですね。
緊急会議 飯田哲也×小林武史 (2) 「なぜ原子力を選んだのか?」

ずっと陽の目を見なかったエネルギー自由化の議論

緊急会議 飯田哲也×小林武史 (2) 「なぜ原子力を選んだのか?」
小林 今の話にも通じることですが、地域社会に根付かないというところでね。日本は高度経済成長のときに、大企業に政治が委ねるという部分が大きくて。それは当然、世界に対して輸出していくというという力が、ソニーやトヨタみたいなね。そういう企業のあり方を素晴らしいと思っている国民も多いと思いますが。この前のテレビ番組でもそうでしたが、どうもこのエネルギーのことで、原発をやられている企業の方々を擁護することが前提になっている気がするんですよ。

飯田 ええ。

小林 それで、さっきも原子力ムラと飯田さんは表現されていたけれど、確かに安全性というのは一口では言えないじゃないですか。そこにいる人は、本当の原子力の怖さも利便性もきちっと考えるというわけではなくて、何かの力が流れこんできて「日本のエネルギー政策の方向は原子力ですね」というふうに、どこかの段階でなっていたんだろうと思うんですよ。
そこの潮流が未だに続いていて。本当にそれが粘土の塊のような感じが僕はするんですよ。つまり打っても打っても響かないという感覚があるんですが。 飯田さんが中にいて、その体制というのはどこから来て、いつから始まったんだと認識をお持ちなんですか?

飯田 政治的な結果でいうと、中曽根康弘さんがアメリカに調査に行って、強引につっこんだ「原子力予算」というところからまず始まったんですけれど。それはいわゆる原子力研究所のような国の機関から始まって、そのあと、今度は電力会社がやることになった。日本原子力発電の東海1号炉という、今は廃炉になったものが一番最初の事業ですね。

小林 これは何年くらいでしたっけ?

飯田 1950年代半ばだっと思いますね。ただこれは、イギリス型の原子炉だったんです。これはあまり性能が良くないというのもあったんですが、それ以上にアメリカが日本に原子力を売りたいというのがその頃にあった。
でもこれは日本だけじゃなくて、ドイツもスウェーデンもイギリスもそうでした。特にフランスは、シャルル・ド・ゴール(フランス第五共和政初代大統領)が一気に進めました。

小林 それはアメリカのを買ったんですか?

飯田 もともとはどの国もそうなんですが、自国型に改造して自前の技術にしたんです。いずれにしても1960年代は、アメリカが世界に原子炉を売りたかったという事情がありました。そのころの有名な言葉で「too cheap to meter」(原子力発電の電気は安すぎて計る必要もない)というものがあって。そういう「夢のエネルギー」という青雲の志というか仮想的な坂の上の雲を、誰もが原子力に見ていたんですね。こうして、みんなが原子力に進んだ時代が1960年代です。
小林 なるほどね。1960年代というのは音楽で見ても大きな時代でした。

飯田 そうですね。そのようにして1960年代は原子力が右肩上がりだったんですが、同時に環境思想も一気に進んだ時代でした。それが1970年前後の環境保護運動や公民権運動とか、ヒッピーなどの対抗的政治文化につながっていく。そこに、1973年の石油ショックが起きるんですね。石油ショックというのは本当に石油がなくなったわけではなくて、それまでヨーロッパとアメリカの石油メジャーが持っていた石油権益を、産油国が自分たちのところに取り返して、石油の価格や産油量をコントロールし始めたという出来事だったのです。その結果、アメリカやヨーロッパ、そして日本などの先進国は、原子力という対抗力を持つことで、産油国に対して切り札にしようとしたんですね。ブラフですが。
小林 なるほど。

飯田 そういう風に、先進国はどこも、1973年に国と国営電力会社が一体になって原子力を進めようとしたのに対して、学生運動や市民運動などによる下からの革命がNOを突きつけるかたちとなりました。環境保護運動と政治的な運動がすべて反原発運動に合流して、世界全体がそれですごく盛り上がるんです。そこからドイツは緑の党が生まれましたし、スウェーデンはもつれ合いながら、最後は国民投票になりました。日本だけは反原発運動は、ほぼ完全に無視されて、アウトサイダーに置かれ続けたというか、国会の議論にはまったくならなかったんですね。
小林 それは国営化されていないところにエネルギーが委ねられていたことが影響するんですか?

飯田 というよりもやっぱり民主主義の話だと思いますね。

小林 民主主義が根付いてない?

飯田 はい。やっぱり経産省、当時の通産省と政治はとにかく石油をどうするんだというというところに終始していました。そこにもうひとつ、1979年に、第二次石油ショックとスリーマイル事故がありました。日本はやりすごして政治的にはあまり影響がなかったのですが、スウェーデンやデンマークやドイツ、オーストリアでは、実はチェルノブイリではなくてスリーマイルの事故によって、原子力政策が死んだんです。そのあと日本で唯一、国全体の大きな議論に原子力が上がりかけたのがチェルノブイリ原発事故(1986年)です。それも、その後の地球温暖化の議論のなかで、原子力が有効だという話に掻き消されてしまった、というのが大きな流れかなという感じですね。
小林 一方、アメリカでも電力の自由化をやったんだけれど、自然エネルギーではなくて安い電力の方向にどんどん伸びていって、石炭が増えたということがあるんでしょう?

飯田 どうして日本で電力自由化の議論が止まったかというと、2000年の末から2001年の始めにカリフォルニアで大停電がありました。それで日本の電力会社は、あれは対岸の火事ではなく、自由化したらあんな目にあうぞという議論をしかけてきました。

小林 日本の電力会社がですよね? なんだか覚えています。

飯田 はい。一方、日本の電力自由化論者は、「自由化が中途半端だからそうなったんだ」という反論をして、議論がネジ曲がってきたところに、2001年の9月にエンロンが倒産したんです。

小林 そうでしたね。
緊急会議 飯田哲也×小林武史 (2) 「なぜ原子力を選んだのか?」
飯田 実はそのカリフォルニア大停電もエンロンがウラで悪さをしていたというオチがあるんですが、日本の電力自由化の議論にはエンロンも深く関わっていたのです。エンロンが作ったイーパワーという会社が通産省にも協力して、日本の電力自由化議論の理論武装していたんです。それが一瞬にして消えてなくなったわけです。エンロンの崩壊が日本の電力自由化の息の根を止めた、というのは現実です。

小林 なかなか難しい話だね。

飯田 そうなんですよ。で、電力自由化の議論を率いていた経産省の中の改革派と呼ばれる人たちが、かなりそこで左遷をされたんですね。

小林 へえー。

飯田 次に、いまNEDO(新エネルギー・産技術総合開発機構)の理事長をやっている村田成二さん(当時、経産省の事務次官)が六ヶ所再処理工場を、なんとか差し止めようと動かれたことがあります。これもまた複雑なんですが「経産省は、建前は再処理推進を装いながら、実質的には差し止めろ」と部下に命じて、経産省の経済合理派の役人は、六ヶ所再処理工場を止めるほうにまわったんですね。
それは原子力推進・反対ではなく、「六ヶ所があまりにも経済合理性に合わないから、あんなものを作っていたら日本の原子力は逆にダメになる」という、日本で初めて生じた経済合理性をめぐる対立だったのです。しかし、それも結局は原子力ムラの人たちにつぶされてしまった。あれが2004年なので、そこからの7年間は、日本では原子力政策に関して、まっとうな理論がまるでできない、本当に歯止めのない期間でした。 ちょうど1年ほど前から、私は原子力に携わる内側の人たちと一緒に、原子力政策の合意ではなく、原子力政策が直面する課題を議論し合意するための、原子力政策円卓会議というのを始めました。原子力ムラの中にも、ちゃんと議論ができる人たちがけっこういるんですよね。その中のある人が「今の原子力ムラの中は、安政の大獄なんですよ」と、非常に面白いことを言ったのです。普通のことを普通に外に向かって言うだけでも、完全に弾圧されて差し止めをくらうんだ、と。それほど言論統制が原子力ムラの内側にはあったのです。 合理性とか論理を追求し、普通の議論ができなくなってきていることを内側の人が証言をしていたのが去年くらいのことですね。そしてその挙句に今回の事故が起きた。
小林 たしかにでも、自然エネルギーのブームも全部意図的に押さえこまれたような気もしていたのですが、やっぱり揚げ足をどんどんとられていくっていうのもそういう原子力を推進しているような力がなんらかの形でかかってきたりするんでしょうか?

飯田 いやもう、ダイレクトにかかるというか(笑)、電力の既得権益には大きく分けて2つのセクターがあるんです。独占を守りたい人たちと、原子力に思い入れがある人たち。この両方にとって、自然エネルギーのような小規模で分散型なエネルギーが広がっていくというのは、非常に面白くない。彼らにとってはやっぱり封じ込めたいと。

小林 まあでも、この話を聞くと、やっぱりそうなんだねっていうぐらい、粘土体質の分厚い......、響かないという、この体質があるんですね。
飯田哲也
飯田哲也
環境エネルギー政策研究所(ISEP)所長。

京都大学原子核工学専攻修了。企業や電力関連研究機関で原子力研究開発に従事した経歴を持つ。その後、スウェーデンのルンド大学客員研究員などを経て、現在は持続可能なエネルギー政策の実現を目的とするISEPの代表を務めつつ、複数の環境NGOを主宰。『北欧のエネルギーデモクラシー』(新評論)、『グリーン・ニューディール―環境投資は世界経済を救えるか』(NHK出版)など、著書・共著も多数ある自然エネルギー政策の第一人者。

環境エネルギー政策研究所(ISEP)
http://www.isep.or.jp/

(情報・資料提供/環境エネルギー政策研究所、撮影・取材・文/編集部)

DIALOGUE ARCHIVES